太平洋戦争末期の日本軍が採用した「特攻」作戦は、今日でも多くの議論を呼ぶ戦争史上稀有な現象です。若き命が国のために散っていった悲劇は、敵味方を問わず強烈な印象を残しました。しかし、彼らの死後、その遺体はどのように扱われたのでしょうか。
本記事では、特攻隊員の死の実態から、遺体の状況、そして弔われ方までを歴史的資料に基づき考察します。当時の社会背景や、特攻という悲劇が生み出された本質的な意味を踏まえながら、これまであまり語られてこなかった特攻隊員の「死後」に焦点を当てていきます。
特攻隊とは?
特攻とは、「特別攻撃隊」の略称で、航空機ごと敵艦船に体当たりする究極の自己犠牲を前提とした作戦です。1944年10月、フィリピン防衛戦において本格的に開始されました。当時、日本軍は太平洋戦争の劣勢を挽回すべく、圧倒的な戦力差を埋めるための方策として、この非常手段に踏み切ったのです。
第1航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の指揮のもと、「神風特別攻撃隊」という名で編成された部隊は、1944年10月21日に最初の出撃を行いました。そして10月25日、敷島隊5機がレイテ島北東岸付近で米空母群を発見し、次々と体当たり攻撃を敢行。米空母「セント・ロー」を撃沈することに成功しました1。
この作戦の「成功」を受け、特攻は通常の攻撃法として位置づけられていきます。大西司令長官は天皇に「かくまでやらせなければならぬということは、まことに遺憾であるが、しかしながら、よくやった」という言葉を得たとされています。
とはいえ、大西自身は「もうやめよ」という言葉を期待していたという記録もあり、特攻を推進した立場にあった軍人でさえ、この作戦に複雑な心境を抱いていたことがわかります。
特攻は、長期間にわたる「悠久の大義」という教育によって支えられていました。天皇への忠義を最高の美徳とする教育が、若者たちに特攻を受け入れさせる土壌となっていたのです。当初は「命令で出撃させない」という建前もありましたが、時間の経過とともにそれも形骸化していきました。
特攻隊員が死ぬ確率
特攻は、その定義上、生還を前提としない作戦でした。つまり理論上の死亡率は100%です。しかし、実際には様々な理由で目標に到達できなかったケースもあります。気象条件の悪化や機体の不調、あるいは途中で敵機に撃墜されるなどの理由で、特攻機の多くは敵艦に命中することなく散っていきました。
戦史の記録によれば、特攻機の予期命中率は対機動部隊で9分の1(約11%)、対上陸船団で6分の1(約17%)と見積もられていました。特攻作戦開始当初のフィリピン沖海戦時は約27%の命中率があったとされていますが、時間の経過とともに大幅に低下していったのです。
この数字が意味するのは、多くの特攻隊員が、敵艦に命中することなく命を落としたという厳しい現実です。海に沈み、または空中で撃墜され、その遺体は大海原に消えていったケースが大多数だったと考えられます。
特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻による戦死者数は海軍が4146人、陸軍が2225人の計6371人に上るとされています。これらの若者たちは、平均年齢20歳前後という青春の真っ只中で命を散らしました。

特攻隊員の遺体はどうなったのか?
それでは、実際に、特攻隊員の遺体はどのように扱われていたのでしょうか?
その1 敵艦に敬意をもって弔われたケース
特攻隊員の遺体の扱いには、いくつかのパターンがありました。敵艦に命中した場合でも、全身が粉砕されるとは限らず、部分的に遺体が残ることもありました。
1945年4月11日、沖縄海域での出来事は、敵味方を超えた人間的な対応の一例です。一機の特攻機が戦艦ミズーリに向けて突入し、右舷艦尾付近に衝突しました。特攻機が積んでいた爆弾は既に投下されていたためか爆発はしませんでしたが、衝突により一帯は炎に包まれました。
火災鎮火後、乗員たちがデッキ上で発見したのは特攻隊員の遺体でした。注目すべきは、ミズーリの艦長が取った行動です。敵国の兵士であるにもかかわらず、その勇敢な行為に敬意を表し、水葬を行う命令を出したのです。さらに、水兵たちは日本の軍艦旗を徹夜で縫い上げ、翌朝、多くの乗員が参加する中で、遺体は海に静かに返されました。
この事例は、戦争という極限状況においても、人間の尊厳を重んじる精神が存在していたことを示しています。敵と味方という二項対立を超えて、一人の戦士としての敬意が表されたのです。
その2 遺品のみが残されたケース
もう一つの例としては、遺体自体は回収されなかったものの、遺品が保存され、後に遺族に返還されたケースがあります。
零戦の特攻を受けた米空母バンカーヒルの例では、乗組員だった故ロバート・ショック氏が、機体と操縦士の遺体処理にあたった際、いくつかの遺品を持ち帰りました。それらは「小川少尉」と書かれた布、パラシュートのバックル、血のついた紙、写真数枚、そして裏ぶたのない時計でした。
これらの遺品は、ショック氏の死後、段ボール箱に入れられたまま発見され、2000年12月、遺族に「返したい」との申し出がありました。2001年3月、特攻から56年を経て、遺品は小川清さんの遺族の手に戻りました。米艦に特攻した操縦士の所持品が遺族に戻るのは初めてのことでした。
注目すべきは時計の状態です。時計は衝突の衝撃で小川さんの胸腔内にめり込んでおり、その裏ぶたは体から剥がれなかったといいます。この事実は、特攻による衝突の激しさを雄弁に物語っています。

その3 不適切な扱いを受けたケース
残念ながら、戦場において敵兵の遺体が尊厳をもって扱われなかった例も存在します。太平洋戦争中、一部の連合軍兵士による残虐行為も記録に残っています。
ギルバート諸島ブリタリ環礁(マキン島)での奇襲作戦では、アメリカ海兵隊員が戦死した日本兵の遺体を損壊するという蛮行が行われました。このような行為はアメリカ軍によって公式に禁止されていたと考えられますが、戦場の混乱の中で常に遵守されていたわけではなかったのです。
これらの事例は、戦争がいかに人間性を損なう可能性があるかを示す暗い証拠です。同時に、敵兵の遺体に対する扱いが、その戦争の文化的・倫理的側面を映し出す鏡でもあることを教えています。
特攻隊員の遺体がバラバラになる可能性
特攻という攻撃方法の性質上、隊員の遺体は激しい損傷を受ける確率が非常に高いものでした。航空機が数百キロメートル毎時の速度で敵艦に衝突する瞬間、その衝撃は想像を絶するものです。
先述した小川清さんの時計が胸腔内にめり込んでいた例からも分かるように、衝突の衝撃により遺体は激しく損傷し、場合によっては粉砕されるほどでした。さらに、特攻機が爆弾を搭載していた場合は、衝突後の爆発によって遺体はさらに細かく分散していたと考えられます。
こうした物理的な要因に加え、海中に沈んだ場合は海洋生物による損壊も考えられます。多くの特攻隊員の遺体は、戦場となった海域の藻屑と消え、家族のもとに帰ることはありませんでした。
しかし、遺体が完全に失われた場合でも、彼らの存在を証明する遺品や記録が残されることがありました。小川さんの時計のように、物理的な痕跡が半世紀以上を経て遺族の元に戻るケースもあったのです。こうした物的証拠は、特攻隊員の「存在の証」として、家族にとって計り知れない価値を持っていました。
特攻隊員の弔われ方
特攻隊員の弔われ方は、彼らの死の状況や遺体の回収可能性によって大きく異なりました。多くの場合、遺体は回収されることなく、出撃した海や空の彼方に消えていきました。
しかし、彼らの記憶を残し、弔う取り組みは様々な形で行われてきました。特攻隊員の多くは、出撃前に遺書を残しました。これらの遺書は、彼らの内面的葛藤や家族への思い、そして死に対する覚悟を今に伝える貴重な資料となっています。
特攻の父と呼ばれる大西瀧治郎中将も、自決の際に遺書を残しています。「特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ/肉弾として散華せり」という言葉で始まる遺書には、若い命を特攻に送り出した責任者としての痛恨の思いが表れています。
一方、より直接的な形で残されたものもあります。慶応大学1年のときに出征し、人間魚雷「回天」の搭乗員になった塚本太郎さん(当時21歳)は、出征前に録音スタジオで家族へのメッセージをレコードに吹き込みました。
「僕はもっと、もっといつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ」という言葉に始まる2分半の録音には、家族との思い出が綴られています。しかし録音の後半では、「人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう」と決意を述べ、「みんなさようなら。元気で征きます」と結んでいます。
この録音からは、家族との平和な生活への未練と、国家のために命を捧げる決意との間で揺れ動く若者の心情が生々しく伝わってきます。特攻作戦の悲劇性を、単なる数字や歴史的事実を超えて、一人の人間の声として伝えるものとなっています。

まとめ:さぞや無念だっただろう
特攻という極限の作戦に散った若者たちの遺体は、多くの場合、家族のもとに帰ることはありませんでした。敵艦に命中して粉砕されるか、海中に沈むか、あるいは空中で撃墜されるかして、その肉体は大海原や戦場に消えていったのです。
しかし、彼らの存在の痕跡は様々な形で残されました。敵兵に敬意をもって弔われたケース、遺品が半世紀を経て遺族のもとに戻ったケース、そして遺書や肉声の記録として今日まで伝えられるケースなど、彼らの記憶は完全に消え去ることはありませんでした。
特攻隊員の平均年齢は20歳前後。まさに人生の可能性に満ちた若者たちでした。「もっといつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたい」という塚本太郎さんの言葉や、「勝又の勝雄だよ。勝つ、勝つ、こんないい名前はないだろう」とユーモアを交えながら最期の酒を飲んだ勝又勝雄少尉の姿は、彼らが単なる「特攻の兵器」ではなく、夢や希望、ユーモアを持った血の通った若者だったことを教えてくれます。
彼らは「さぞや無念だっただろう」—この想像は、現代を生きる私たちの自然な感情かもしれません。しかし、彼らの遺した言葉を見ると、無念さだけでなく、信念や覚悟、そして未来への希望も見えてきます。大西中将の遺書にある「諸子は国の宝なり/平時に処し猶ほ克く/特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と/世界人類の和平の為/最善を尽せよ」という言葉には、後世の平和への願いが込められています。
特攻隊員の遺体は失われても、彼らの生きた証は様々な形で残り、私たちに戦争の無意味さと平和の尊さを訴え続けています。彼らの遺体を適切に弔うことはもはやできなくとも、その記憶を風化させず、二度とこのような悲劇を繰り返さない決意を新たにすることこそが、現代に生きる私たちができる最も意味のある「弔い」なのかもしれません。