豊臣秀吉の家紋一覧|首相官邸や筑波大学と似ている理由も考察!

豊臣秀吉の家紋一覧|首相官邸や筑波大学と似ている理由も考察!

「豊臣秀吉」と言えば、「日本一の立身出世男」で有名ですよね。尾張の農民から関白・太政大臣にまで成り上がり天下統一まで成し遂げた彼の人生にロマンを感じる人たちもいるはずです。

そんな秀吉ですが、一体どのような家紋を使っていたのでしょうか?

この記事では、豊臣秀吉の家紋一覧をまとめています。また、豊臣秀吉が使っていた家紋が首相官邸や筑波大学の紋章と似ている理由について考察しているので、歴史に興味のある人たちは参考にしてみてください。

目次

豊臣秀吉の家紋一覧

さて、豊臣秀吉は、どのような家紋を使っていたのでしょうか?

ここでは、秀吉が使用していた3つの家紋について紹介していきます。

その1 五三の桐紋

その1 五三の桐紋(ごさんのきり)

第1に、豊臣秀吉は五三の桐紋を使っていました

「五三の桐」は、中央に楓の五つ葉と左右に桐の三つ葉が配置された家紋です。楓は永遠の愛や平和を象徴しており、桐は不滅の力や栄光を表しています。まさに、「天下統一」する人間が使うに相応しい家紋であると言えるでしょう。

実のところ、秀吉は「桐紋」を二度受け取っています。

一度目は、主君の織田信長から五三桐の紋を継承しています。これは、室町幕府第15代にして最後の将軍と言われる足利義昭が信長に与えたものです。信長が次代を秀吉に託そうとしていたことを感じさせるエピソードですよね。

二度目は天下統一後、名前を豊臣と改めた権威を讃えるために、後陽成天皇から五七桐の紋が下賜されました。この桐紋を秀吉は愛用し、室内装飾品や衣服だけにとどまらず、大阪城にもあしらうなど、権威を示していたと考えられます。

その2 太閤桐紋

その2 太閤桐紋

第2に、太閤桐は豊臣秀吉の代表的な家紋です。「桐紋」をベースに秀吉独自のアレンジを加えているため、「太閤桐(たいこうきり)」と呼ばれるようになりました。

秀吉は関白の地位から退いた後、「太閤」と呼ばれるようになりました。そのときに、自らの権威を象徴する新しい家紋を創作したと言われています。その意匠は安土桃山文化の華やかなデザインになっているところに特徴があります。

なお、秀吉は天皇家が使用する菊と桐の紋章を功績を上げた家臣たちに惜しみなく与えていました。その一方で、自らは太閤桐という独特の家紋を用いたところに権威を象徴する狙いがあったと考えられます。

その3 沢瀉紋

その3 沢瀉紋

第3に、豊臣秀吉が「木下藤吉郎」と名乗っていた頃に使っていた家紋が沢瀉紋です。読み方は「おもだかもん」です。

一説によると、正妻のねねが属する一族の家紋が沢瀉紋だったから使っていたようです。加えて、秀吉が家紋を与えた部下のうち、福島正則が最後まで沢瀉紋を掲げていたことから「福島沢瀉」と呼ばれることもあります。

類稀なる出世を遂げた秀吉だからこそ、時期に応じて家紋にも変化があるのは面白いですよね。

首相官邸や筑波大学と似ている理由

家紋 比較 秀吉 首相官邸 筑波大学

なお、豊臣秀吉が使っていた「桐紋」は日本政府と筑波大学の紋章とよく似ていると言われています。確かに、デザインを見てみると、区別がほとんどつきませんよね。

厳密に言うと、首相官邸の紋章は「五七の桐紋」であり、秀吉と筑波大学の紋章が「五三の桐紋」です。一体、どうして同じ紋章が使われているのでしょうか?

結論から言えば、織田信長が秀吉に与えた桐紋は、現在では日本を代表する紋章になったからです。筑波大学もまた旧帝大として日本を代表する教育機関ですから、桐紋を掲げることにしたのでしょう。

五七の桐紋が最も権威性が高く、天皇家が歴史的に用いた紋章としても知られています。日本政府でも、五七の桐紋を使っているのは、最高権威を示しているからだと言ってよいでしょう。一方で、最高権威を示す五七の桐紋に下る形で「五三の桐紋」は存在しています。

ひょうたんの家紋は存在するのか?

「豊臣秀吉がひょうたんの家紋を使っていた」という話を聞いたことのある人たちもいるようですが、事実なのでしょうか?

これに関しては、秀吉は家紋としてひょうたんを用いていたわけではないようです。あくまでも、戦場で馬印として使っていたと言われています。これに関しては、国土交通省の資料で次のように記載されています。

この瓢箪型の馬印は、実際に戦場で秀吉(1537-1598)が使ったと考えられている。軍旗は日本語では馬印と呼ばれていたが、これは文字どおり馬につける旗印という意味である。この瓢箪型のものは馬印と呼ばれ、秀吉のシンボルであった。馬印は戦国時代(1467-1568)の戦闘において司令官の位置を示すために使用された。秀吉が最初の頃に勝った戦いとの関連から、瓢箪は秀吉にとって戦の勝利の象徴となった。

国土交通省の資料より引用(最終確認日:2024年4月16日)

ただし、丸に瓢(まるにひさご)というひょうたんの家紋は存在します。当時、瓢箪(ひょうたん)は中をくり抜き容器として使用されていました。神霊が宿るとされ、「丸に瓢」は旗印に使用されました。

ひょうたん 家紋 秀吉

地位に応じて家紋が変化した

秀吉は百姓から天下統一を果たすところまで出世します。そのあまりにもドラスティックな変化にファンたちも多いわけですが、彼の人生に象徴するように家紋にも変化が見受けられるのは面白いですよね。家紋には、掲げた本人の思想が反映されています。

その背景を知ることで「日本の歴史的人物が当時、何を考えていたのか?」を想像すると、過去を生きた人たちを身近に感じやすくなるかもしれません。これを機会に、あなたの好きな歴史の偉人が使っていた家紋を調べてみてはいかがでしょうか。

参考文献 参考サイト一覧

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この記事を書いた人

DEEP JAPAN QUEST編集部は日本文化に関する総合情報メディアを運営するスペシャリスト集団です。DEEP JAPAN QUEST編集部は、リサーチャー・ライター・構成担当・編集担当・グロースハッカーから成り立っています。当サイトでは、日本文化全般に関わる記事を担当しています。

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