特攻隊員が死ぬ瞬間に残した言葉|「お母さん」と叫んだのは本当なのか?

特攻隊員が死ぬ瞬間に残した言葉|「お母さん」と叫んだのは本当なのか?

第二次世界大戦時、片道分の燃料だけを積んで敵地に突っ込んだ「特攻隊」について興味を持っている人たちもいるはずです。平和な世の中を生きている現代の若者からすれば、10代や20代の若者が文字通り命を懸けた歴史的事実があるのは衝撃的なことだと思います。

そんな彼らは死ぬ瞬間にどのような言葉を残したのでしょうか?

この記事では、特攻隊員の人たちが亡くなる瞬間に残した言葉に関して考察していきます。また、「お母さんと叫んだのは本当なのか?」という疑問についても言及しているので、日本の特攻隊について知りたい人たちは参考にしてみてください。

目次

特攻隊とは?

特攻隊とは、第二次世界大戦末期に日本軍が編成した自爆攻撃部隊です。

特攻隊員は、航空機や小型艦艇を敵艦に体当たりさせることで、自らの命を犠牲にしながら敵に大きな損害を与えることを目的としていました。

とりわけ、有名なのが「神風特別攻撃隊」で、主に沖縄戦で活動しました。この戦術は日本軍の窮状を反映しており、戦争末期の象徴的な行動として歴史に刻まれています。

特攻隊で死ぬ確率

特攻隊で死ぬ確率は100%であると考えられます。爆弾を積んだ飛行機で突っ込むですから、生き残る可能性は0であると言わざるを得ません。

任務が成功しても、失敗しても、必ず死ぬ。それが特攻作戦という絶望的な作戦なのです。そのあまりにも残酷さに命令を出せないと難色を示した上官もいたと言われています。

パイロットが搭乗したまま航空機を敵艦に突っ込ませる特攻隊の「体当たり作戦」は、「私には、100パーセント死ぬ命令をだすことはできない」と語った海軍航空部隊の隊長がいたというほど、生還の望みをもてないものだった。
文春オンライン『特攻隊員の自爆機が敵に突っ込んでいく時、なぜ基地の無線で「最後の瞬間」を聞いていたのか』より引用

死が確実な作戦ですから、「命令=殺人」と感じる人がいるのも無理はありません。何としても戦争に勝たなければいけなかったのかもしれませんが、人間の生命を手段にして「体当たり」するほど追い詰められていた状況において、アメリカ軍を打ち破るのは不可能だったと言わざるを得ません。

なかには、奇跡的に生き残った人たちもいます。例えば、出陣前に終戦を迎えた人たちや飛行機のエンジントラブルで不時着した人たちは死を免れました。しかし、自分だけが生き残ったことを責め、戦後に自殺した軍人もいたと言われています。

特攻隊員が死ぬ瞬間に残した言葉は実在するのか?

さて、特攻隊員は自らの命を投げ打って死ぬ瞬間にどのような言葉を残したのでしょうか?

残念ながら、特攻隊員が亡くなる瞬間の言葉を記録した歴史的資料は存在しません。

零戦ならば機内にいるのは基本的に1人です。特攻機や作戦内容によって2人が乗っていた場合もありますが、いずれも亡くなる以上は最後の瞬間に言葉を残しようがないのです。

したがって、彼らが遺した最後の言葉は、家族や恋人宛の手紙であると言えます。

けれども、死ぬ瞬間は、だれに嘘をつく必要のない自分の時間です。今まさに敵地に突撃しようとするときに、彼らが何かを言葉として発した可能性は十分にあり得る話です。

「お母さん」と叫んだのは本当なのか?

以上を考慮すると、特攻隊員が死ぬ瞬間に「お母さん」という言葉を残したという逸話は事実であるとは言えないでしょう。

それでもなお、「お母さん」と叫んで死んだと語られるのは、「今これから死ぬ」という究極の恐怖を前にしたとき、「こどもが親にすがりたい」という心情が生まれるのが自然であると想像する人が多いからなのかもしれません。

特攻隊員の中には、10代や20代の若者が数多くいました。未来ある若者が「避けがたい死」に直面したときに、いくら国のために覚悟して出陣したとはいえ、恐怖がなかったわけではないはずです。

勇しく潔く振る舞うことはあったとしても、自ら命の終止符を打つ根本的恐怖に打ち勝つのは生きている者としてあまりにも不自然です。それが臆病ではなく本能です。もちろん、特攻隊として亡くなった方たちの気持ちを後世の人間が代弁することはできません。

ただ、彼らが死ぬ瞬間に、「お母さんという言葉を残した」という逸話それ自体が特攻隊に対して人々が感じていた「悲劇」を象徴しているように思います。すなわち、だれしもが母に助けを求めるように死んでいくのが普通であると思っていたのではないでしょうか。子を愛する親としても、これほど悲しい出来事はこの世に存在しないでしょう。

特攻隊員の遺書が読める

現代を生きる私たちは、特攻隊員が亡くなる瞬間に残した言葉を知る由はありません。それでも、彼らが残した遺書を読むことは可能です。鹿児島県の知覧にある特攻平和会館はデジタルアーカイブとして特攻隊の遺書を公開しています。

その中には、両親や恋人に送った手紙があります。原則として、最愛の人に送る最後の手紙だったとしても、検閲されることが前提でしたから、「国のために務めを果たす」という内容が多く、恐怖を吐露したものは見受けられません。

ただ、中身を見られるとしても、これから死にゆく身の上で家族に悲観的な話をしようとする人もいなかったのかもしれません。これを機会に、是非一度、特攻隊員として出撃を命じられた人たちが残した言葉に触れてみてください。

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この記事を書いた人

DEEP JAPAN QUEST編集部は日本文化に関する総合情報メディアを運営するスペシャリスト集団です。DEEP JAPAN QUEST編集部は、リサーチャー・ライター・構成担当・編集担当・グロースハッカーから成り立っています。当サイトでは、日本文化全般に関わる記事を担当しています。

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