天草四郎と言えば、わずか16歳で島原の乱を先導したリーダーとして歴史に名前が刻まれています。舞台などの題材になっていることから物語の中で容姿が美化されており、「イケメン」というイメージが普及しています。実際のところ、天草四郎は美少年だったのでしょうか?
この記事では、「天草四郎がイケメンだったのか?」という疑問について言及しています。また、美少年のイメージが生まれた理由や写真の有無も解説しているので、天草四郎に興味のある人たちは参考にしてみてください。
天草四郎の概要
天草四郎は益田甚兵衛の長男として生まれ、本名は益田四郎といいます。若い頃、長崎で学問を学び、特にキリシタンとしての教育を受けたとされています。
上津浦の南蛮寺にいたママコス神父が、「25年後に神童が現れ、人々を救う」と予言を残して去ったという話が広まり、四郎こそがその神童であるとの噂が立ちました。
この噂は天草だけでなく島原一帯にも広がり、一揆勢の総大将に祭り上げられました。しかし、四郎はシンボル的な存在で、実際の指揮は父甚兵衛らが行っていたとされています。原城に籠もった四郎は、呪術的な格好で洗礼を授けたり説教を行うなど、宗教的指導者としての役割を果たしていました1。
天草四郎はイケメンだった?
さて、天草四郎はイケメンだったのでしょうか?
残念ながら、天草四郎の容姿に関する史料が存在しないことからイケメンかどうかはわかりません。
島原の乱で唯一生き残ったという山田右衛門作が残した『山田右衛門作口書』にも、天草四郎の容姿が優れていたという記述はなく、額に痣があったことだけが特徴として記載されているに過ぎません。
したがって、史実として天草四郎がイケメンだったとは言えないのです。
美少年のイメージが生まれた理由
それにもかかわらず、天草四郎に対して美少年のイメージが生まれたのは、どうしてなのでしょうか?
これに関しては、天草四郎の人物象に関する先駆的研究者である海老沢有道氏は、後世の人たちが文献を誤読したが要因である可能性を指摘しています2。具体的に言えば、本来的には「才能」を意味する「器量」という言葉が近世になって「容姿」という意味に置き換わったことで誤解が生まれたと言います。
加えて、「島原の乱」で英雄的カリスマとして活躍した天草四郎をフィクションとして物語化する動きも「美少年」というイメージ形成に大きな役割を果たしたと考えられます。
事実、天草四郎を題材とする舞台や小説のなかでは、キリシタンを救う若きヒーローとしての人物像が表現されており、エンターテイメントとして語る存在として「イケメン」であるほうが都合がよかったと考えられるのです。
近年、歴史的人物を題材とするゲームキャラクターは総じて「美少年」設定になっています。これは女性ファンたちを獲得する企画側の戦略であり、いわゆる「2次元」というサブカルチャーの世界では男性がイケメンにデザインされるのは当たり前になっています。事実、天草四郎のイラストもかっこいい容姿としてデザインされています3。
以上のようなことから、「天草四郎=美少年」というイメージが現代に至るまでに定着してきたと推察されるのです。
天草四郎の写真は存在するのか?
残念ながら、当時、カメラの技術はまだ日本国内には存在しなかったので、天草四郎の写真はありません。Googleの画像検索で「天草四郎」というキーワードと関連した写真がいくつか出てきますが、どれも偽物です4。ただし、天草四郎の肖像画はいくつか存在します。
江戸ガイド
こちらの肖像画は芝田美術館所蔵の「天草四郎時貞像」です。
天草四郎は悲劇のヒーローだったのかもしれない
天草四郎は16歳という若さでこの世を去りました。宗教的予言の象徴として担がれてしまった四郎の運命は、いくらキリシタンのために戦った英雄的史実として残されていたとしても、非常に嘆かわしいものだったように思います。
もちろん、本人の気持ちを代弁することはできませんが、周りの大人たちが自らの生き残りと宗教的使命感を賭けて物事を進めていくなかで、抗えない流れのような圧力が生まれていたと考えられます。英雄は、民衆の期待を背負って作り出されるものです。
その期待に最後まで逃げずに応えた四郎は優しい心を持った青年だったのでしょう。その意味では、容姿は聡明で柔らかい表情をしていたのかもしれませんね。
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