天草四郎はさらし首にされた?気になる死因や子孫の有無を考察

天草四郎はさらし首にされた?気になる死因や子孫の有無を考察

天草四郎は16歳という若さで生涯を終えました。約37,000人という巨大軍勢のリーダーとして生きた四郎は後世ではカリスマ的英雄として語られることがものの、一説によれば、天草四郎が戦を指揮したのではなく、父・甚兵衛をはじめとする側近たちが実務的な役割を担っていたと言われています1

すなわち、天草四郎はキリシタンの民衆たちを糾合させる神輿だったわけです。そんな彼の最期はどのようなものだったのでしょうか?

この記事では、天草四郎の死因について解説しています。また、「さらし首にされたのは本当なのか?」という疑問にも言及しているので、四郎が死んだ要因を知りたい人たちは参考にしてみてください。

目次

天草四郎の概要

天草四郎は、益田甚兵衛の長男で、本名は益田四郎といいます。幼い頃に長崎で学問やキリシタンの教えを学びました。ママコス神父が「25年後に神童が現れ、人々を救う」という予言を残し、その後、四郎がその神童だと噂されました。

この噂は天草や島原地方にも広まり、彼は一揆の総大将に据えられましたが、実際の指揮は父の甚兵衛たちが行っていたと言われています。原城では宗教的指導者として、人々に洗礼や説教を行っていました。

天草四郎はさらし首にされた?

「天草四郎は処刑後にさらし首にされた」という話がありますが、本当なのでしょうか?

結論から言えば、天草四郎がさらし首にされたのは事実であると考えられます2。熊本藩主に属する細川忠利の家臣の陣佐左衛門によって斬首された四郎の首は、キリスト教が国内に流通するきっかけとなったポルトガル交易の拠点である長崎の出島の正面入り口前に晒されたと言われています。

当時ポルトガル人が居住している眼前に天草四郎時貞他数名のキリシタンの首が数日間晒されていたとされる。

長崎県公式HP『【フォト巡礼】「『原城への道程(みち)』(その9)天草四郎ら出島に晒首」』

江戸幕府から「禁教令」が発布された当時において、四郎とその他のキリシタンの首が晒し物になったのは、ポルトガル人をはじめ国内のキリスト教信者にとって絶望的な状況だったに違いありません。四郎はキリシタンにとっての精神的支柱だったこともあり、見せしめとしてさらし首になったと考えられます。

天草四郎の死因

天草四郎の死因は、陣佐左衛門による斬首であると言われています。けれども、史料が少ないことから、はっきりとしたことはわかっていないのです。実のところ、江戸幕府側も天草四郎の容姿を把握していたわけではありませんでした。

そこで実施されたのが何とも残酷な「首実験」でした。天草四郎の母であるマルタ(洗礼名)の前に複数の首を並べて見せたところ、陣佐左衛門が切り落とした首にすがって号泣したことから「天草四郎」だと判断するに至ったわけです。

これが事実であるならば、天草四郎の死因は斬首だったと言えるでしょう。

けれども、一度、幕府との戦が始まれば、天草四郎の母は自分の息子が殺されるおそれがあるのは百も承知だったはずです。もはや妄想の域ではありますが、宗教的使命のために担がれた四郎を守るために、嘘をついた可能性も決して0ではないわけです。

「史料がほとんどない」という環境要因から「天草四郎は生き延びた」などのさまざまな憶測が今日に至るまで生まれていますが、真実は神のみぞ知ると言わざるを得ないのが実情なのです。

天草四郎の子孫は存在するのか?

長い間、天草四郎には妻がいないと考えられていました。16歳で島原の乱を先導する神輿となり、命を落としたわけですから結婚なんてしていないと推察されるのは自然なことかもしれません。

しかし、尾張徳川家の蔵書などを保存していた名古屋市蓬左文庫にあった「天草陣雑記」から妻がいた可能性を示唆する記述が見つかっています。具体的には、島原の乱で重要な役割を果たした有家監物の娘だったと言われています。

以上のことを考慮すると、「天草四郎には子孫がいるのではないか?」という疑問が湧いてきます。実際のところ、どうなのでしょうか?

残念ながら、現在のところ、天草四郎の直系の子孫がいることを示す史料は存在しません。天草四郎の年齢を考えると、妥当な見解であると考えられます。

天草四郎が残した最期の言葉

天草四郎が死際に残した言葉はわかっていません。ネット上には、「いま籠城している者たちは来世まで友になる」という最もらしい最期の言葉を残したという情報がありまうが、それを裏付ける史料が公開されているわけではありません。

繰り返しになりますが、天草四郎に関する史料はほとんど残っていないことから、その実態は謎に包まれています。けれども、キリスト教を信じて未来のために命を懸けて戦った若き英雄がいたことは今もなお語り継がれています。

実際、今日に至るまで舞台や小説の題材になるのは、それだけ天草四郎を魅力的に感じた人がいたからに他なりません。わからないことが多いからこそ想像力が膨らみ、クリエイティブな物語が生まれてくるのもまた、人間の面白いところのように感じます。

脚注

  1. 一般社団法人天草四郎観光協会 ↩︎
  2. 長崎県公式HP『【フォト巡礼】「『原城への道程(みち)』(その9)天草四郎ら出島に晒首」』 ↩︎
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この記事を書いた人

DEEP JAPAN QUEST編集部は日本文化に関する総合情報メディアを運営するスペシャリスト集団です。DEEP JAPAN QUEST編集部は、リサーチャー・ライター・構成担当・編集担当・グロースハッカーから成り立っています。当サイトでは、日本文化全般に関わる記事を担当しています。

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