原爆ドームは元々何の建物だった?残った理由や中にいた人への影響を解説

原爆ドームは元々何の建物だった?残った理由や中にいた人への影響を解説

原爆ドームは核兵器の脅威を伝える世界遺産です。修学旅行で広島に行く人たちは必ずといってよいほど見学する象徴的な場所であると言えます。しかしながら、今でこそ「原爆ドーム」として定着していますが、その前はどのような建造物だったのでしょうか?

この記事では、「原爆ドームは元々何の建物だったのか?」という疑問について考察しています。また、原爆の爆風でも全壊せずに残った理由や中にいた人への影響にも言及しているので、原爆ドームについて知りたい人たちは参考にしてみてください。

目次

原爆ドームの基本情報

原爆ドームの基本情報は以下のとおりです。

ウィキペディア「原爆ドーム」より引用
項目内容
名称原爆ドーム
住所〒730-0051 広島県広島市中区大手町1−10
入場料無料
開演時間常時
備考1996年に世界文化遺産に登録。

原爆ドームは元々何の建物だったのか?

さて、広島にある原爆ドームは元々何の建物だったのでしょうか?

原爆ドームの元々
広島市公文書館所蔵

結論から言えば、原爆ドームは元々「広島県物産陳列館」という施設であり、県内の物産を陳列したり、美術展覧会や博覧会を開催したりするための建物だったのです。1933年に「広島県産業奨励館」という名称に変更され、文化的なコンベンション・センターとして広島市民に親しまれていました。

原爆ドームの設計は明治末期から大正にかけて日本で活躍したチェコの建築家ヤン・レツルが手掛けています。当時では珍しい洋風な建築は広島県内でも非常に目立つものでした。美術的な催しを行う際には、電飾が施されるなど、非常に美しいモダンな建物だったのです。

1996年12月にメキシコで開催された世界遺産委員会において、原爆ドームは核兵器の惨禍を伝える建築物として世界遺産登録が決定しました。当時、アメリカは原爆ドームの登録に強く反対しました。けれども、登録決議では反対することはありませんでした。

なぜ原爆ドームは残ったのか?

原爆は原爆ドームの上空580mで炸裂したと言われています。その凄まじい爆発にもかかわらず、どうして原爆ドームは残ったのでしょうか?

これに関しては、建物の屋根とドーム部分の大半が木材で構築されていたため、真上からの爆風に対して厚くなっていた側面の壁は完全に押しつぶされずに済みました。加えて、楕円形のドームを覆っていた銅板が溶けたことで爆風の衝撃が抜けたのも倒壊を免れる要因になったと考えられています。

とはいえ、核兵器の爆心地から半径2km以内にあるほとんどの木造建造物は全壊したことを考慮すると、原爆ドームが残ったのは奇跡だったと言えるかもしれません。

原爆ドームの中にいた人はどうなったのか?

なお、原爆が落とされたときに、原爆ドームの中にいた人たちはどうなったのでしょうか?

残念ながら、原爆ドームの中にいた人は、全員即死だったと言われています。

原爆から生じた火球は約7,700度であり、そこから生じた熱線は3,000〜4,000度にまで到達したと記録されています。とても人間が生き残れるようなレベルの環境とは言えません。一瞬にして人間が灰になるほどの破壊力です。実際、広島では約14万人、長崎では約7万人の命が奪われました。

ただし、爆心地から500m以内で奇跡的に生存した人は78名いたと言われています。詳しく知りたい方はこちらの記事をご覧ください。

原爆ドームに訪れた人たちの感想まとめ

それでは、実際に、原爆ドームに訪れた人たちは、どのような感想を抱いているのでしょうか?

ここでは、Xで「原爆ドーム」を話題にしている人たちの投稿をいくつか紹介していきます。

原爆ドームに訪れた人たちの感想まとめ

スクロールできます

「原爆ドーム」は日本人だけではなく、外国人観光客の方たちもたくさん訪れる戦争を学ぶ観光スポットとなっています。ダークツーリズムという言葉が一時的に話題になりましたが、平和への決意や願いを新たにする場所であることを考えると、ホープツーリズムと呼んだほうが適切かもしれません。

世界遺産として核兵器の惨禍を伝え続ける場所

原爆ドームは奇跡的に残った場所です。戦後から80年近くの歳月が経過しようとする今、核兵器の脅威を知るには歴史を学ぶしかありません。こればかりは当事者になることだけは避けなかえれば意味がないのです。いわゆる、「平和ボケ」と揶揄されることはありますが、それは幸せなことです。

今でも地球上では、テロをはじめ死と隣り合わせの地域が数多く存在しています。どんな人だって、朝起きて、ご飯を食べて、大切な家族や友達と楽しく過ごすのが良いに決まっています。そんな日常が当たり前ではなく、夢物語になる現実は不幸に違いありません。

かと言って、具体的に平和のためにできることは決して多くないかもしれません。それでも、「戦争が絶対にしてはいけない」という気持ちから政治的リーダーの性質を見抜いていくことは大切なことです。小さな一歩からしれませんが、断固として暴力ではなく対話で未来を作るという姿勢を貫くべきなのです。

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この記事を書いた人

DEEP JAPAN QUEST編集部は日本文化に関する総合情報メディアを運営するスペシャリスト集団です。DEEP JAPAN QUEST編集部は、リサーチャー・ライター・構成担当・編集担当・グロースハッカーから成り立っています。当サイトでは、日本文化全般に関わる記事を担当しています。

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