豊臣秀吉の死因に関する3つの説|天ぷらが原因で死んだのは本当なのか?

豊臣秀吉の死因に関する3つの説|天ぷらが原因で死んだのは本当なのか?

豊臣秀吉は織田信長の代わりに天下統一を成し遂げた人物です。秀吉は百姓の出身で大出世した夢のような人生を生きており、そのロマンチックな生き方を題材とした映画や小説が数多く生み出されています。そんな秀吉の最期はどのような終わり方だったのでしょうか?

この記事では、秀吉の死因に関する3つの説をまとめています。また、「天ぷらの食べ過ぎで死んだ?」という疑問にも言及しているので、秀吉の最期について興味のある人たちは参考にしてみてください。

目次

豊臣秀吉の最期

豊臣秀吉は死ぬ2週間前に遺言として「豊臣秀吉遺言覚書」を残しました。その中で、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家を五大老に確定し、自らの死後の治世を委ねたのです。

また、縁者の乏しい秀吉は、五大老に「秀頼が一人前に成長するまで支えてほしい」と懇願し、「これ以外に思い残すことはない」と述べるほど、息子の行く末が気がかりだったようです。実際、徳川家が台頭すれば、秀頼の立場はありません。自分の死後に殺されるおそれがあることを心配していたのでしょう。

ルイス・フロイスの『日本史』によれば、秀吉は臨終間際になっても息を吹き返し、狂乱状態で愚かしいことを話していたと伝えられています。もしかしたら、脳に障害を抱えていたのかもしれません。

そして、秀吉は1598年8月18日に息を引き取りました。残念ながら、秀吉が託した願いも虚しく、その後、家康に裏切られて、『関ヶ原の戦い』をきっかけに豊臣家は権力のメインストリームから外されていくのでした。

なお、豊臣秀吉は亡くなる前に辞世の句として「つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」と詠みました。露は「儚いもの」の喩えとして用いられます。「生まれて死にゆく」という道理の前では、何もかもが儚く思えるのは人生の摂理であると言えるかもしれませんね。

豊臣秀吉の死因に関する3つの説

さて、豊臣秀吉は何が原因で死んだのでしょうか?

ここでは、3つの代表的な死因に関する説を紹介していきます。

原因1 結核説

第1に、豊臣秀吉が死んだのは結核が原因であるという説があります

「秀吉は死ぬ前に咳を頻繁にしていた」という記録が日記や古文書に残っていたことから、結核を患っていたと推察されているのです。國學院大学で名誉教授を努めた故・桑田忠親氏は「労咳説が無難である」としています。

当時、結核は死に至る病ですから、秀吉の生命を奪った直接的要因だったとしても何らか不思議はありません。「国民病」や「亡国病」と呼ばれていたように、秀吉以外にも数多くの著名人が結核が原因で亡くなっているのです。

原因2 梅毒説

第2に、血気盛んだった秀吉は性交渉によって感染した梅毒で死んだという説があります

先ほども述べたように、秀吉は亡くなる寸前に狂乱状態になったと言われています。神経梅毒は脳にまで広がると、認知症の症状が出ることがありますから有力な説のひとつとして考えられているわけです。

秀吉はかなりの女性好きだと言われています。あまりの浮気癖に困った妻のねねは織田信長に直訴したと言われていますが、それでも治らなかったようです。文字通りの「サル」だったわけですね。そのため、梅毒の感染リスクは高かったと想像されます。

原因3 ガン説

第3に、秀吉はガンを患っていたことが原因で亡くなったという説があります

具体的には、胃癌或いは大腸癌だった可能性があると言われています。秀吉は腹痛や下痢などの症状が確認されていることから主張されるようになったようです。とはいえ、血便などの他の関連した症状の有無は定かではないため、実際のところはわかりません。

ただ、がん悪液質の影響によって脳が損傷するおそれもあることから、晩年に異常な行動を取った要因だったとも推察されるのです。

上記の他にも、「明国の沈惟敬が秀吉を暗殺した」という説もあります。その発端は、18世紀に朝鮮で編集された『燃藜室記述』に「秀吉は沈惟敬の毒によって命を落とした」という記述があったことから主張されるようになりました。けれども、沈惟敬が秀吉と面会したのは1596年ですから亡くなった日との整合性が取れません。もしかしたら、功績のでっち上げを行ったのかもしれませんね。

天ぷらが原因で死んだのは本当なのか?

なお、「秀吉が天ぷらの食べ過ぎで死んだ」という噂がありますが、本当なのでしょうか?

結論から言えば、秀吉の死と天ぷらは無関係です。徳川家康が天ぷらを食べ過ぎたことが原因で死んだという説があることから、秀吉と混同してしまったのでしょう。

『慶長日記』によれば、京都の豪商茶屋四郎次郎が鯛の天ぷらを家康に献上したところ、そのあまりの美味しさに食べ過ぎてしまったことで腹痛を起こしたと伝えられています。投薬が必要なほど容態は深刻だったと言われており、その後も体調が芳しくなく、天ぷらを食した3ヶ月後に75歳の生涯を終えました。

天ぷらを食べたことが直接的な原因であるとは言えないでしょうが、胃癌や大腸癌などの疾患を患っていたとすれば、何らかの影響があったとも考えられます。いずれにしても、秀吉と天ぷらは関係がありませんので、間違えないようにしましょう。

秀頼の行末を案じて亡くなった

秀吉は当時まだ6歳だった秀頼の行末を案じていました。自分が死んだ後、家康がその座を替わろうとするのは明らかでしたから、身の安全を含めて心配だったのでしょう。

実際、家康は「関ヶ原の戦い」をきっかけに権力の座につき、豊臣家は衰退せざるを得なくなりました。秀頼も若くして亡くなっていますから、秀吉の願いは届かなかったと言えます。

如何なる権力を持っていたとしても、死んでしまえばどうすることもできません。その意味では、秀吉が辞世の句で詠んだ「つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」のとおり、人生とは儚い夢のようなものなのかもしれませんね。

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この記事を書いた人

DEEP JAPAN QUEST編集部は日本文化に関する総合情報メディアを運営するスペシャリスト集団です。DEEP JAPAN QUEST編集部は、リサーチャー・ライター・構成担当・編集担当・グロースハッカーから成り立っています。当サイトでは、日本文化全般に関わる記事を担当しています。

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