安倍晴明の死因に関する諸説|現在の子孫はいるのか?

安倍晴明の死因に関する諸説|現在の子孫はいるのか?
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平安時代中期に活躍した陰陽師・安倍晴明は、現代でも謎と伝説に包まれた人物として多くの人々を魅了し続けています。

フィギュアスケートの羽生結弦選手が陰陽師をモチーフにした演技で注目を集め、2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』ではユースケ・サンタマリアさんが演じるなど、安倍晴明への関心は今なお衰えていません。

その長い生涯と死因、そして子孫の存在について、歴史資料と伝説の両面から迫ります。本稿では、安倍晴明の死因に関する諸説と、現代に続く子孫の系譜に焦点を当て、平安時代を生きた稀代の陰陽師の全貌に迫ります。

目次

安倍晴明の概要

安倍晴明は延喜21年(921年)、醍醐天皇の時代に生まれました。母親については諸説あり、伝説によれば「葛の葉」という白狐だったとも言われています。この伝説は、安倍晴明の父・安倍益材(やすき)が信太(しのだ)の森で狩に追われていた白狐を助け、恩返しのために人間の姿になった葛の葉が妻となり、安倍晴明を産んだというものです。

一方、『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)という文献には、晴明には父母がいない「化生ノ者」(人間ではないもの)と記されており、その出自は当時から謎に包まれていました。こうした伝説が生まれた背景には、晴明の並外れた能力や長寿、時に人間離れした行動があったためと考えられます。

安倍晴明の陰陽師としての活躍は比較的遅く、51歳で「天文博士」に任命されてからとされています。そこから天体異変の発見による天皇への密奏、円融天皇の怪異占い、花山天皇(師貞親王)の命による那智山の天狗封印の儀式などを行い、その名声を確立していきました。

特筆すべきは、藤原道長との関係でしょう。道長は五男であり、通常であれば権力を握ることが難しい立場でした。しかし、兄たちが相次いで病死し、晴明の呪詛が命を縮めたとさえ信じられていました。さらに道長のライバルであった伊周(これちか)を謀略で失脚させた「長徳の変」では、伊周が抵抗せず左遷に従ったのは、晴明の方術による命の危険を恐れたためだったとも言われています。これらの逸話は、晴明の存在が平安時代の政治にも影響を与えていたことを示しています。

また、晴明は一条天皇が病に倒れた際に禊を行い、たちまち病状を回復させたという伝説も残しています。陰陽師として吉凶を占うだけでなく、病気治療や怪異調伏といった広範囲な能力を持っていたことが窺えます。その長い活躍の後、安倍晴明は寛弘2年(1005年)、85歳という当時としては驚異的な長寿を全うして亡くなりました。

安倍晴明の死因に関する諸説

安倍晴明の死因については、詳細に記録された資料が残っておらず、確定的なことは言えません。しかし、いくつかの状況証拠や伝説から推測することは可能です。

まず注目すべきは、安倍晴明の驚異的な長寿です。安倍晴明は85歳まで生きたとされていますが、平安時代の平均寿命は40〜50歳程度であったため、当時としては二倍近い長寿だったことになります。このことから、最も可能性の高い死因としては単純に「老衰」が考えられます

しかし、ここで興味深いのは、亡くなる前年に新しい役職に就いたという記録があることです。つまり、84歳という高齢にもかかわらず、晴明は生涯現役だったと推測されます。当時の医療水準を考えると、特定の病気で急に倒れたというよりは、徐々に体力が衰え、最期を迎えた可能性が高いでしょう。

さらに独自の視点として考察すると、安倍晴明は陰陽道の実践者として、自身の健康管理にも優れた知識を持っていた可能性があります。当時は科学的な医学ではなく、気の流れや陰陽の調和に基づく健康法が主流でした。晴明はそうした知識を駆使して、自身の健康を維持していたのかもしれません。

また、安倍晴明は暦や天文に関する深い知識を持っていたことから、季節の変化や食物の摂取について独自の見識を持っていたことも考えられます。実際、晴明は藤原道長に対して、物忌み中の瓜の食べ方についてアドバイスしたというエピソードが残されており、食養生についても造詣が深かったことがうかがえます。

このように、安倍晴明の死因については確定的な史料はないものの、その驚異的な長寿から、当時の一般的な死因である疫病や外傷ではなく、静かに老衰で亡くなった可能性が最も高いと考えられます。

安倍晴明の辞世の句

日本の文化において、人生の最期に詠む「辞世の句」(じせいのく)は重要な伝統です。辞世の句とはこの世を去る際に残す歌や句のことで、多くの歴史的人物がその生き様や思いを込めた辞世を残しています。しかし、安倍晴明の辞世の句については、残念ながら明確な記録は見つかっていません。

これは意外なことかもしれません。なぜなら、平安時代の貴族や学者たちは、辞世の句を残すことが一般的だったからです。例えば、同時代の菅原道真は「東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春な忘れそ」という有名な辞世の句を残しています。

安倍晴明の辞世の句が残されていない理由としては、いくつかの可能性が考えられます。

まず、安倍晴明は陰陽師として特殊な立場にあり、一般的な貴族や文人とは異なる死生観を持っていた可能性があります。陰陽道では死後の世界や魂の転生について独自の考え方があり、辞世の句という形式にこだわらなかったのかもしれません。

また、安倍晴明は85歳という高齢で亡くなったとされていますが、最期の瞬間まで意識があったかどうかは不明です。老衰で徐々に衰弱していった場合、辞世の句を詠む機会がなかった可能性も考えられます。

さらに、安倍晴明の辞世の句が実際には存在したが、後世に伝わらなかったという可能性もあります。平安時代から現代まで、約1000年という長い時間が経過しており、多くの文献や記録が失われています。

しかし、辞世の句が残されていないことは、かえって安倍晴明という人物の神秘性を高めているとも言えるでしょう。彼の死に関する記録の少なさが、後世の人々の想像力を掻き立て、多くの伝説を生み出す一因となったのかもしれません。

4現在の子孫はいるのか?

安倍晴明には吉昌と吉平という2人の子供がいたことが知られています。このうち吉平の系譜が後世まで続き、陰陽師としての家業を継承していきました。

安倍晴明の子孫たちは、当初は「安倍氏」として活動していましたが、室町時代になると、家名が「土御門氏」へと変わっていきます。この変更が行われた理由ははっきりとしていませんが、一般的には14代目にあたる安倍有世が祖とされています。しかし、実際に土御門を称し始めたのは安倍有世のひ孫・土御門(安倍)有宣からだとされており、それ以降の子孫は土御門姓を名乗るようになりました。

歴史的に見ると、土御門家は室町時代に宗家を巡る争いが起こりましたが、14代目の安倍有世がその優れた陰陽師としての能力で最高位に上り詰め、争いを収めたとされています。これをきっかけに、安倍家は格の高い家として認められるようになりました。

しかし、戦国時代頃、土御門泰栄の代に安倍晴明の男系の血筋は途絶えてしまったとされています。その後、宗家は養子相続を繰り返し、女系を経た遠縁となっていきました。それでも、明治維新後も土御門家は華族として存続し、その血統は続いていきました。

現代においては、安倍晴明の宗家の子孫と言える土御門家の最後の男性当主は、土御門熈光・範忠兄弟だったとされています。その没後は、範忠の一人娘である土御門善子さんが当主を務めていましたが、継承の意志はあまりなく、近年の動向は不明となっています。

一方で、宗家ではないものの、安倍晴明の血を引く27代目という安倍成道という方が現在も陰陽師として活動されているという情報もあります。

また、安倍晴明の子孫の墓は、土御門家の菩提寺であった京都の梅林寺にあり、18世紀から大正期に建てられた一族の墓が20基残っています。しかし、2017年の報道によれば、これらの墓は長年の風雨にさらされて傷み、墓石にひびが入り、碑銘も剥がれ落ちている状態だとされています。

これは、半世紀以上前から土御門家の関係者との連絡が途絶えており、一族との協議ができないまま補修できない状況が続いているためです。このように、安倍晴明の直系の男系子孫は途絶えたものの、女系や分家を通じて、その血筋は現代まで様々な形で残っていると考えられます。ただし、宗家としての系譜は不明確な状況となっています。

5まとめ:国に仕える偉人だった

安倍晴明は、平安時代中期に活躍した陰陽師として、天皇や藤原道長をはじめとする貴族たちから絶大な信頼を得ていました。その生涯は921年の誕生から1005年の死去まで、実に85年に及び、当時の平均寿命のほぼ2倍という驚異的な長寿を全うしました。

晴明の死因については明確な記録は残っていませんが、その長寿から考えて老衰が最も可能性の高い死因と考えられます。また、亡くなる前年まで現役で活動していたという記録もあり、最期まで国や朝廷に仕え続けた姿勢がうかがえます。

安倍晴明の最大の功績は、藤原道長を権力の中枢に押し上げたことであるとも言われています。道長は五男という立場上、通常であれば権力を握ることが難しい状況にありましたが、兄たちの相次ぐ死去や政敵の失脚により、権力の座に就くことができました。これらの出来事の背後には晴明の呪術的な力が働いていたと当時の人々は信じていたのです。

彼の生涯から学ぶべきは、専門知識を極め、それを社会のために活用することの重要性です。安倍晴明は陰陽道という当時の最先端の知識体系を習得し、それを国家運営や人々の安寧のために用いました。現代においても、専門性を持ち、社会に貢献する生き方の模範として、安倍晴明の姿勢は価値あるものと言えるでしょう。

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