特攻隊から逃げた人はいる?生還者の証言と逃亡者の扱いについて考察

特攻隊から逃げた人はいる?生還者の証言と逃亡者の扱いについて考察

第二次世界大戦末期、日本軍は戦局打開のために特攻隊(とっこうたい)と呼ばれる自殺攻撃部隊を編成しました​。特攻作戦は「生きては帰れない」任務であり、多くの若者が命を落としました。

こうした状況下で、一部の隊員は出撃命令から逃れたり、生還を果たす例も存在しました。本記事では、特攻隊の歴史的背景と実態、そして特攻から逃れた隊員たちの証言や戦後の扱いについて、公式記録や元隊員の証言をもとに解説します。

目次

特攻隊の概要と歴史的背景

第二次世界大戦中盤以降、日本は徐々に劣勢となり、1944年にはマリアナ沖海戦で大敗を喫しました​。戦力を消耗した日本軍上層部は通常攻撃では連合軍に太刀打ちできないと判断し、最後の手段として特攻による体当たり攻撃に踏み切ります​。

1944年10月、第一航空艦隊司令長官に着任した大西瀧治郎中将が海軍の「神風特別攻撃隊」を編成し、初の組織的特攻を実施しました​。同年10月下旬のレイテ沖海戦では、神風特攻隊が護衛空母を撃沈する戦果を挙げ、以後特攻は日本軍の主要戦術となっていきました​。

特攻隊員たちは出撃前、指揮官である大西中将(写真手前)から訓示を受け敬礼するなど、出陣式が行われた(1944年10月、レイテ島)​。彼らは片道の燃料と爆装を施された航空機に乗り込み、「必ず命を捨てる」前提で敵艦に突入しました。そのため特攻は「十死零生」と形容され、生還の可能性は限りなくゼロに近い作戦でした​​。

実際に1944年10月から終戦までの航空特攻による日本人戦死者は約4千人にも及ぶとされます。​この特攻作戦は連合軍にも大きな損害と恐怖を与えましたが​、日本側の若者にとってはあまりにも苛烈で悲劇的なものでした。

2. 特攻隊から逃れた隊員の実態

「生きて帰らない」はずの特攻から生還した隊員たちがいました。その多くは、自ら望んで逃亡したというより、やむを得ない事情や偶発的な要因で命拾いした者たちでした。例えば、特攻機の老朽化や不具合、悪天候、敵の迎撃などの外的要因で目標に辿り着けず引き返したケースがあります​。

中には、内心では「犬死には避けたい」との思いから機体故障を装い帰還した例もあったようです​。

こうした帰還者に対し、当時の軍は極めて厳しく、**「死を恐れる卑怯者」**と見なされ差別的待遇を受けることもありました​。事実、太平洋戦争末期の沖縄戦において出撃後に突入せず帰投した特攻隊員の一部は、「故意に機体を損壊して戻った」などと非難されていますg

生還した特攻隊員は再度の出撃を強いられ、厳重に管理されました。陸軍第6航空軍は福岡に秘密裏に**「振武寮(しんぶりょう)」**と呼ばれる施設を設置し、帰還した特攻隊員を次の出撃まで収容しました。振武寮には悪天候や機体トラブルで命拾いした者から、突入寸前で恐怖に負け引き返した者まで、1945年5月から6月の約1か月半の間に50~80人(帰還搭乗員全体の約1割)もの隊員が収容されたといいます​。

しかし、この施設の存在は戦後長らく公にされず、帝国陸軍の公式記録には一切記載が残っていませんでした​。軍は特攻から「逃れた」者の存在を隠蔽し、彼らを再度死地に送ることで特攻作戦の綻びを繕おうとしたのです。

生還した隊員たちの証言

奇跡的に生還を果たした特攻隊員たちは、戦後になって重い沈黙を破り、その体験を語り始めました。その証言から浮かび上がるのは、決して全員が喜んで死に赴いたわけではないという現実です。特攻隊員の多くは20歳前後の若者で​、「お国のため」に命を捧げることが名誉と教えられて育ちました。しかし内心では出撃直前まで苦悩や葛藤を抱えていた者も少なくありません​。

例えば、特攻隊員だった庭月野英樹さん(出撃予定日:1945年8月15日)は、当時19歳。終戦の日に特攻出撃命令を受けましたが、正午の玉音放送により出撃は中止され、命拾いしました。庭月野さんは「われわれが行ってやっつけなければ、空襲でたくさんの人が殺されるんだ」と信じ、「自分も死ぬのが当たり前」と覚悟していたと語っています​。

彼の同期生52人のうち大半が戦死し、その多くが特攻で命を落としました​。生き残った庭月野さんは戦後長く語り部として活動し、「19歳で死ぬつもりだった自分がなぜ生かされたのか、自分と同じような若者がいたことを伝え続けたい」と証言しています(庭月野氏の証言)。

また、陸軍特攻隊『万朶隊』の隊員であった佐々木友次さんは、9回出撃して9回とも生還した異例の経歴を持ちます。佐々木さんは上官から「次は必ず体当たりしろ(死ね)」と再三命じられながらも、「死ななくても何度でも出撃し、爆弾を命中させます」と答え、実際に生還を重ねました​。

彼は敵艦に対し爆弾を投下後に帰投するという戦術を取り、生き延びたのです。このように、上層部の無謀な命令に反抗しつつ戦果を上げた佐々木さんのようなケースは稀ですが、戦後になってその存在が明らかになりました。佐々木さん自身も「不死身の特攻兵」としてインタビューに応じ、特攻の真相を語っています​。

生還した元特攻隊員たちは戦後、複雑な思いを抱えて生きました。彼らの多くは「自分だけ生き残って申し訳ない」という生存者の罪悪感に苦しみ、長らく沈黙を守っていたといいます。ある元隊員は「戦友は皆死んだのに自分は生き残った後悔を抱き続けた」と証言しており、平和な世で家族を持ちながらも内心では亡き仲間への呵責と向き合ってきました。一方で、生還者たちが声を上げ始めたことで、特攻の陰に隠された実態が次第に社会に知られるようになりました。

逃亡者と見なされた隊員のその後

特攻から逃れようとした者、命令を拒否した者は「逃亡者」と見なされ、軍紀違反として厳罰に処される危険がありました。当時の日本軍の軍法会議では、命令不服従や敵前逃亡は重罪であり、極刑も辞さない姿勢でした​。特に戦況が逼迫した末期には、十分な軍法会議すら経ずに現場の判断で処刑された例もあったとされています​。

実際、ある記録によれば逃亡兵16人全員に特攻要員として「処刑代わり」の任務が与えられたとの記録も残っています​。つまり、逃亡を図った兵士を正式に銃殺する代わりに、特攻という形で死なせる措置が取られたのです。軍法務官ですら「緊急時には軍法会議にかけず兵士を射殺し得る」と認めており、極限状態の中で軍は容赦なく制裁を加えていました​。

特攻隊員についても、命令違反は即処罰の対象でした。一旦「特攻隊員」として志願・指名された後に出撃を拒めば、それは通常の軍令拒否とみなされ軍法会議行きです​。陸軍航空隊のある基地では、密かに出撃を拒否した若い隊員がいたものの、翌朝には彼の姿は消えており、その消息を口にすることはタブーになっていたといいます​。

恐らく憲兵隊に拘束され厳罰が下されたのでしょうが、その詳細は闇に葬られました。当時の軍では、「拒否者は存在しない」建前を貫くため、拒否や逃亡の事実を隠蔽しながら粛清していたのです。

戦後、こうした逃亡者とされた元隊員たちの多くは、公には語られることもなく社会に埋もれていきました。彼らは軍事裁判で有罪となっていた場合、戦後の恩給や名誉回復にも支障が生じました。終戦直後、陸軍省は軍法会議の記録を焼却したため、戦時中の処罰記録はほとんど残っていません​。

その結果、処刑された兵の遺族は「公式には敵前逃亡で処刑」と伝えられ、長く汚名を着せられたままとなるケースもありました​。特攻を逃れた生存者たちもまた、「卑怯者」と後ろ指をさされることを恐れて沈黙を貫いた人もいたと考えられます。彼らの戦後は、戦友を失った悲しみと、自身が生き残ったことへの後ろめたさを抱えながらの再出発だったのです。

特攻作戦を拒否した者の扱い

では、特攻を拒否した者たちは具体的にどう扱われたのでしょうか。結論から言えば、公式には「拒否者はいなかった」ことにされました。戦時中、特攻の候補者に選抜された段階で「本当に志願するか」の確認が行われる建前でしたが、前述のように実際には拒否できない空気が支配していました​。

それでも敢えて拒絶の意思を示した猛者も僅かながら存在しましたが、その人たちは翌日には忽然と姿を消し、誰もその行方を尋ねることはありませんでした​。軍内部で密かに拘束・隔離され、二度と部隊に戻ることはなかったのです。

一方、海軍のトップエースパイロットである岩本徹三少佐のように、特攻志願を求められても「ノー」と言い通し、通常任務に従事し続けた例もあります​。岩本氏の場合、日本有数の撃墜王という功績から上官も強く出られず、お咎めなしで終戦まで戦闘機搭乗員を続けました​。このように立場や技能によっては特攻を免れた者もいたのです。しかし大半の若い隊員にとって、特攻命令を拒否することはほぼ不可能でした​。仮に拒否すれば軍法会議で処罰(下手をすれば死刑)に処せられる恐れがある以上、拒否は「死ぬか、処刑されるか」の選択に等しかったと言えます​。

戦後、このような「特攻を拒否した人々」は長らく顧みられることがありませんでした。日本社会では、特攻隊員たちは英霊として顕彰される一方で、「行かずに済んだ人」や「拒否しようとした人」の存在は語られない傾向が続きました。しかし近年になり、研究や証言の中で特攻を拒否・回避した人々にも光が当てられつつあります。彼らは決して臆病者ではなく、極限状況下で人間として当たり前の生への執着や理性的判断を示した人々でした。戦後の評価においても、「特攻に殉じなかった者=卑怯」という見方は次第に薄れ、むしろ狂気の作戦に疑問を呈した勇気ある姿勢として再評価する動きもあります。

例えば、特攻隊の中で独自に通常攻撃を続け最後まで特攻を拒んだ「芙蓉部隊」(海軍夜間攻撃隊)の存在が再発見されるなど​、歴史の見直しが進んでいます。戦後70年以上を経て、特攻隊の歴史的認識も変化しつつあります。かつては一括りに「尊い犠牲」と称えられた特攻ですが、今日ではそこに至った背景や個々人のドラマを踏まえ、多角的に捉え直されているのです。

まとめと考察

特攻隊から逃れた隊員たちの存在とその足跡は、長い間歴史の陰に隠されてきました。公式には記録されず、語られることのなかった**「特攻からの逃亡」**という事実を、私たちは今改めて直視する必要があります。特攻作戦に関する歴史的事実を再評価することで、戦時下における個人の意思や尊厳がいかに踏みにじられたかが浮かび上がってきます。

極限の状況下であっても、生きたいと願うのは人間として当然の感情です。それを「非国民」「卑怯」と断じて命を強制的に奪った特攻作戦は、国家が個人の尊厳を犠牲にした悲劇の象徴と言えるでしょう。生還した特攻隊員の証言や、逃亡者と見なされた兵士たちの運命は、戦争というものの不条理さを如実に物語っています。上官の命令に疑問を抱きつつ殉じた若者、命令に抗って生を繋いだ若者——いずれの姿からも浮かぶのは、命の尊さと戦争の無慈悲さです。

今なお世界の各地で紛争が絶えない中、特攻隊の歴史は現代社会に重要な教訓を与えています。「一人ひとりの人生」を使い捨てにする戦争の愚かさ、そしてどんな状況でも人間の尊厳を守ることの大切さです。特攻から逃れ生き延びた人々の物語は、決して臆病者の物語ではなく、平和を希求する人間の物語として後世に伝えていかなければなりません。私たちは特攻隊の真実に学び、二度と若者が「死ぬことを強要される」社会を繰り返さないよう努める責任があります。歴史の再評価を通じて戦争を捉え直し、命と人間の尊厳について深く考える契機としたいものです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

DEEP JAPAN QUEST編集部は日本文化に関する総合情報メディアを運営するスペシャリスト集団です。DEEP JAPAN QUEST編集部は、リサーチャー・ライター・構成担当・編集担当・グロースハッカーから成り立っています。当サイトでは、日本文化全般に関わる記事を担当しています。

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次