太平洋戦争末期、日本海軍は戦局を打開するために様々な特攻兵器を開発しました。その中でも「回天」と呼ばれる人間魚雷は、特攻兵器の中でも最も過酷な兵器として知られています。
通常の魚雷を改造して人間が乗り込み、敵艦に体当たりするという極限の作戦は、80年経った今でも「頭おかしい」と評される理由があります。
本記事では、人間魚雷「回天」の実態と、その非人道性、そして奇跡的に生き残った搭乗員の貴重な証言から、戦争の悲惨さと人間の尊厳について考察します。
人間魚雷「回天」とは?
「回天」は、太平洋戦争末期に大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍初の特攻兵器です。「天を回らし戦局を逆転させる」という意味を込めて命名されました。通称「人間魚雷」とも呼ばれ、秘密保持のため「〇六(マルロク)」「㊅金物(マルロクかなもの)」「的(てき)」などの別称も使われていました。
回天は、海軍の誇る九三式三型魚雷(酸素魚雷)を改造した全長14.75m、直径1m、排水量8.3トンの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に1人乗りのスペースを設けていました。そこに簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を備えていたのです。
特筆すべきは、先端部に搭載された炸薬量です。回天は先端に1.55トンもの炸薬を詰め込んでいました。これは通常の九三式三型魚雷の炸薬量780kgの約2倍にあたり、大型艦船でも一発で沈めることが可能といわれるほどの破壊力を持っていました。
エンジンの出力は550馬力で、速度は最大30ノット(約55.56km/h)、その場合の航続距離は23キロメートル、航行可能時間は25分でした。より低速の10ノット(約18.52km/h)では、78キロメートルの航続距離と253分の航行時間を誇りました。1944年(昭和19年)7月に2機の試作機が完成し、同年11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入されました。終戦までに約420基が生産されましたが、兵器としての正式採用は1945年(昭和20年)5月28日のことでした。
人間魚雷は誰が作ったのか?
通常、軍の新兵器開発は上層部からの命令で始まりますが、回天の場合は違いました。その開発は現場の若手士官の発案と嘆願によるものだったのです。岐阜県下呂市出身の黒木博司少佐(当時は中尉)は、戦局が悪化する中、「何とかしなければ」という思いから、特殊潜航艇(人間魚雷)の案を考案しました。上層部を説得するために、自らの血で嘆願書を書き、開発にこぎつけたといわれています。
黒木少佐は「天を回らし戦局を挽回するために」という意味を込めて「回天」と命名しました。黒木少佐と仁科関夫中尉らが中心となって開発を進めましたが、皮肉なことに黒木少佐自身は、昭和19年9月7日、山口県の徳山湾で訓練中に殉職しています。開発者が自ら命を捧げる覚悟で兵器を開発し、実際に殉職したという点で、回天は他の特攻兵器とは一線を画していました。ここに、回天の悲劇性と非情さが象徴されているといえるでしょう。
「回天」が頭おかしいと言われる理由
回天は狂った兵器と言わざるを得ません。その理由は以下のとおりです。
理由1:脱出装置のない「鉄の棺桶」
回天が「頭おかしい」と評される最大の理由は、搭乗員の生還を全く考慮していない設計にあります。回天のハッチは内部から開閉可能でしたが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかったのです。
「回天」は、その構造上「鉄の棺桶」とも呼ばれていました。一旦、潜水艦を離艦した「回天」は、体当たりに失敗しても回収されることはなく、乗り込んだ搭乗員は2度と帰ってくることはありませんでした。
さらに恐ろしいのは、回天のエンジンは一度始動すると停止することができなかった点です。これは通常の魚雷と同様の設計でしたが、人間が乗り込む兵器としては致命的な欠陥でした。エンジンが始動した後は、海面に露出しないよう、また海底に突っ込まないよう、常に慎重な操作が必要だったのです。
このように、搭乗員の生存可能性をゼロにする設計は、人間の命を完全に消耗品として扱う思想の表れであり、戦時中でも「頭おかしい」と感じる人は少なくなかったでしょう。
理由2:技術的欠陥と操縦の困難さ
回天の基となった九三式三型魚雷は、長時間水中におくことに適していませんでした。仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても、水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障し、エンジンが点火されないケースがありました。
また、回天の操縦は非常に難しいものでした。水平方向のコントロールは主にジャイロコンパスで行い、垂直方向は深度調整装置で行いましたが、燃料消費によって浮力が増加するため、海水タンクに手動で海水を注入しながらバランスを保つ必要がありました。
さらに、目標への攻撃方法も複雑でした。潜水艦から得た目標艦船の情報をもとに進行方向を決め、予測した位置まで近づいたら浮上して水防眼鏡で確認し、再び進行角度を修正して目標に突っ込むという手順をとりました。
このような技術的な困難さに加え、エンジンから発生する一酸化炭素や高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などによる空気汚染で、搭乗員がガス中毒を起こす危険もありました。これらの問題に対して根本的な対策はとられなかったのです。
これらの技術的欠陥と操縦の困難さは、回天が実戦兵器として効果的だったかという疑問を投げかけます。人命を犠牲にしてまで投入する価値があったのか、という点で「頭おかしい」との評価につながっています。
理由3:若者の命を無駄にした非人道性
回天による戦没者は106人にのぼり、その平均年齢はわずか21歳でした。多くの場合、搭乗員は予科練(海軍飛行予科練習生)出身の若者たちでした。彼らは本来、飛行機に乗ることを夢見て海軍に入ったにもかかわらず、特攻兵器の搭乗員として命を落とすことになったのです。
山口県周南市の大津島では、昭和19年9月21日、約100名の少年兵に回天が披露されました。竹林博さん(旧姓高橋)のような若者たちは、「いまさらあとへ退けるか」と覚悟を決めましたが、その選択に本当の自由があったとは言い難い状況でした。
さらに悲劇的なのは、回天の製造に関わった民間人も犠牲になったことです。京都府京丹波町の高光朝子さん(93歳・2021年当時)は、女学生だった頃に山口県光市の光海軍工廠へ学徒動員され、回天の部品(先端部)の製造に携わりました。彼女は当時、それが「人間魚雷」だとは知らされていませんでした。
終戦前日の空襲で、工廠で働いていた約20人の彼女の同級生が亡くなりました。「火ぶくれで人相も分からないほどだった。本当にかわいそうで…」と高光さんは涙ながらに証言しています。
このように、回天は搭乗員だけでなく、製造に関わった若い民間人の命も奪いました。戦局も見えている最終段階での非人道的な特攻作戦は、「頭おかしい」という評価を免れないのです。
人間魚雷「回天」で生き残りはいたのか?
驚くべきことに、「必ず死ぬ」はずの回天から、生き残った搭乗員がいました。名古屋在住の岡本恭一さん(取材当時90歳)は、回天搭乗員でありながら、奇跡的に生き残った数少ない一人です。

岡本さんは、山口県周南市の大津島を「聖地」と呼び、時折訪れていました。大津島は回天の開発・訓練が行われた島であり、彼にとって特別な意味を持つ場所だったのです。
生き残った理由については、詳細な記録がありませんが、出撃命令が出る前に終戦を迎えた可能性が高いと考えられます。また、訓練中の事故が頻発していたことを考えると、訓練段階で不具合が見つかり、出撃が中止されたケースもあったでしょう。
生き残った回天搭乗員たちは、「死にぞこない」としての葛藤を抱えながら戦後を生きてきました2。彼らは戦友が特攻で命を落とす中、自分だけが生き残ったという罪悪感と向き合いながら生きてきたのです。
岡本さんのような生還者の証言は、回天という兵器の実態と、若者たちが置かれた過酷な状況を知る上で非常に貴重です。彼らの「生きた証言」こそが、回天の真実を後世に伝える重要な遺産となっています。

人間魚雷「回天」の死ぬ瞬間
回天搭乗員の最期の瞬間について、直接的な記録はほとんど残されていません。しかし、訓練や構造から、その最期の状況をある程度推測することができます。
回天による攻撃は、初期は港に停泊している艦船への攻撃(泊地攻撃)が中心でした。最初の攻撃で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、一定の戦果があったとされています。しかし、米軍が防潜網を展開するようになると、水上航行中の船を目標とする作戦に変更されました1。
この変更により、搭乗員には動いている標的を狙うという、さらに困難な任務が課されました。潜望鏡測定による計算と操艇が要求され、成功率は大幅に低下したと考えられます1。
死の瞬間、回天搭乗員は何を思ったのでしょうか。大和ミュージアムでは、回天搭乗員だった塚本太郎さんが家族に残したメッセージ(肉声)を聞くことができます8。こうした遺書や遺言から、彼らの思いの一端を垣間見ることができるのです。
また、回天内部は狭く、一酸化炭素や四エチル鉛による空気汚染の危険もありました1。長時間の潜行中に意識を失ったり、体調を崩したりした搭乗員もいたかもしれません。
敵艦に命中した場合、1.55トンの炸薬による爆発で、搭乗員は一瞬にして命を落としたでしょう。しかし、命中できなかった場合、酸素や燃料が尽きるまでの間、狭い船内で孤独な最期を迎えることになります。この「確実な死」を前にした恐怖と孤独は、想像を絶するものだったでしょう。
まとめ:人間魚雷「回天」が残した教訓
人間魚雷「回天」は、太平洋戦争末期の日本が追い詰められた状況を象徴する特攻兵器でした。通常の魚雷を改造し、人間が操縦して敵艦に体当たりするという極限の発想は、80年経った現在でも「頭おかしい」と評される所以です。
その理由は、①脱出装置のない「鉄の棺桶」という非人道的設計、②技術的欠陥と操縦の困難さ、③若者の命を無駄にした非人道性にあります。回天による戦没者は106人、平均年齢はわずか21歳でした。彼らの多くは、「国のため」という大義名分のもとに若い命を散らしたのです。
一方で、岡本恭一さんのように奇跡的に生き残った搭乗員もいました。彼らは「死にぞこない」としての葛藤を抱えながらも、回天の実態を後世に伝える貴重な証言者となりました。
2025年、終戦から80年を迎える今、回天の歴史から学ぶべきことは多いでしょう。人間の命を「消耗品」と見なす非人道的な発想や、絶望的な状況での「必勝」の幻想が、いかに多くの若者の命を奪ったかを忘れてはなりません。
人間魚雷「回天」の歴史は、戦争の残酷さと、平和の尊さを改めて教えてくれます。「二度とこのような悲劇を繰り返さない」という決意こそが、回天搭乗員たちへの最大の追悼となるのではないでしょうか。
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