太平洋戦争末期、日本軍が実施した「特別攻撃隊」(特攻隊)は、「十死零生」と呼ばれる自己犠牲的な作戦として知られています。しかし、一般的なイメージとは異なり、特攻出撃から生還した隊員も少なからず存在しました。本記事では、特攻隊から生き残った有名人たちとその貴重な証言を紹介し、彼らが語る戦争の真実に迫ります。
特攻隊で生き残る可能性はあるのか?
「特攻=必ず死ぬ」というイメージが強い特攻作戦ですが、実際には様々な理由で生還した隊員が存在しました。特攻隊員の生還理由としては、主に以下のようなケースがありました。
- 機体トラブルによる帰還
- 悪天候による任務中止
- 敵艦隊に遭遇できなかった場合
- 終戦による出撃中止
「十死零生」というフレーズで表現されるように、生還の可能性はほぼゼロと言われていた特攻作戦ですが、現実には予想以上に多くの生還者がいました。たとえば、海軍特攻隊員の小貫貞雄(こぬき・さだお)さんは、5回も特攻出撃しながらも、いずれも敵艦隊に遭遇することなく生還しています。
特攻から生還した隊員たちは、多くの場合「なぜ自分だけが生き残ったのか」という罪悪感や自責の念に苦しみました。三重県四日市市の村山了(むらやま・さとる)さんは、「死のうと思い死ねなかった」というタイトルの記事で紹介されているように、出撃予定が変更され、最終的に終戦を迎えたことで生き残りました。このような生還者たちは、戦友の死と向き合いながら戦後の人生を送ることになったのです。
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特攻隊の生き残りで有名人はいる?
特攻隊から生還した隊員の中には、戦後、各界で活躍した人物も存在します。
小貫貞雄(杉田貞雄)- 5度の特攻出撃から生還した証言者
最も注目すべき人物の一人が、小貫貞雄(戦後、杉田と改姓)さんです。1926年3月生まれの小貫さんは、わずか18歳で零戦搭乗員として第一線部隊に配属され、フィリピンでの激戦を経験しました。昭和19(1944)年10月末、フィリピンのクラーク・フィールドで特攻隊員となった小貫さんは、台湾を拠点に爆弾を搭載した零戦で5度にわたる特攻出撃を命じられましたが、いずれも敵艦隊に遭遇することなく生還しました1。
公式記録で確認できる限り、爆装出撃5回という経験は、生き残った海軍特攻隊員の中では最多とされています。小貫さんは平成30(2018)年2月22日、91歳で亡くなるまで、特攻志願から出撃、生還、そして終戦に至るまでの率直な心情を証言しました。特に「同調圧力」による志願の実態について、「皆、顔は前を向いたまま、目だけをきょろきょろさせて、周囲の様子をうかがっていた」と語り、美化された「英霊」像とは異なる特攻隊員の実像を伝えました。

佐々木友次 – 9回の特攻出撃から生還した記録保持者
さらに驚くべき生還記録を持つのが、佐々木友次(ともじ)さんです。陸軍特攻隊員だった佐々木さんは、なんと9回もの特攻出撃から生還したという記録を持っています。北海道出身で飛行機好きだった佐々木さんは、21歳で陸軍最初の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」の一員となりました。
佐々木さんの生還には、万朶隊隊長の岩本益臣の影響があったとされています。佐々木さんの生涯は、作家・演出家の鴻上尚史氏が「生還の秘密」として研究するほど、多くの人の関心を集めました。

村山了 – 終戦により生き残った特攻隊パイロット
村山了さんは、三重県四日市市出身の特攻隊パイロットです。昭和18(1943)年4月、拓殖大学の学生だった村山さんは学徒出陣で埼玉県の熊谷陸軍飛行学校に入校しました。「どうせ死ぬのなら華々しく早めに」と、最も死亡率の高い航空隊を志願したそうです。
昭和20(1945)年1月に特攻隊員として出撃予定だった村山さんは、一度は実家の仏壇にリンドウの下に遺書を隠しました。しかし、予定変更により出撃せず、その後、弟が戦死したため「兄弟そろって戦死するのは酷」という上層部の判断で出撃が見送られました。さらに同年7月、新しい戦闘機「隼」での出撃参加を血書嘆願しましたが、「隼」の納入が遅れたことで8月15日の終戦を迎え、生き残ることになりました。
特攻隊で忘れてはいけない歴史の語り手たち
特攻隊の歴史を伝える上で欠かせない人物として、直接の隊員だけでなく、彼らと交流し、その記憶を語り継いだ人々も重要です。
鳥濱トメ – 「特攻の母」と呼ばれた女将
鹿児島県知覧町(現・南九州市)の「富屋食堂」を営んでいた鳥濱トメさんは、多くの特攻隊員に出撃前の最後の食事を提供し、「特攻の母」と呼ばれました。富屋食堂は単なる食事処ではなく、故郷を離れた若い特攻隊員たちにとって束の間の「家庭」でもありました。
特に有名なエピソードとして、知覧基地から出撃した勝又勝雄少尉が鳥濱さんに「おばちゃん、30年分の寿命をあげる」と言い残したというものがあります。若くして命を絶たれた特攻隊員たちの「残りの人生」を生きる使命感を持った鳥濱さんは、86歳で亡くなるまで彼らの思いを語り継ぎました。
知覧特攻平和会館の語り部たち
現在、知覧特攻平和会館では、地元知覧町出身の語り部が特攻の歴史的背景と特攻隊員の遺書・手紙等の特色について解説しています。川床剛参事(昭和15年8月生まれ)、田代良民参事(昭和26年10月生まれ)、和田二三男参事(昭和25年10月生まれ)、桑代照明参事(昭和31年9月生まれ)、大隣健二参事(昭和33年5月生まれ)、松山尚子参事(昭和49年7月生まれ)など、直接特攻を経験していない世代も含めて、特攻の記憶を伝える活動を続けています。
特に注目すべきは、桑代照明参事の存在です。桑代さんは知覧生まれで、母親が戦時中「なでしこ隊」として特攻隊員と交流があったという背景を持っています。このように、直接経験者から次世代へと語り継がれる形で、特攻の記憶は保存されているのです。
特攻隊員の証言が示す歴史の真実
特攻隊員たちの証言から見えてくるのは、戦後長く美化されてきた「特攻精神」とは異なる、複雑な実態です。
「志願」の裏にあった同調圧力
小貫貞雄さんの証言によれば、特攻隊員の「志願」は必ずしも純粋な愛国心や犠牲精神だけから来たものではありませんでした。フィリピンのクラーク・フィールドで福留繁中将が特攻隊員を募集した際、「周囲の様子をうかがいながらも、結局は『同調圧力』に屈して一歩前に出ることになった」と小貫さんは率直に語っています。
この証言は、「自らの意志で特攻に行く」という単純な物語では捉えきれない複雑な心理状況を示しています。18歳という若さで極限状況に置かれた若者たちの苦悩と葛藤は、戦争の実相を理解する上で極めて重要な視点です。
美化されない戦争体験としての特攻
特攻体験者の証言の価値は、それが美化も過度な悲劇化もされていない、等身大の戦争体験だという点にあります。
村山了さんが「どうせ死ぬのなら華々しく早めに」と思ったという証言や、小貫貞雄さんが特攻志願を「しまったと思ったが、もう後戻りはできなかった」と振り返った言葉は、若者たちが置かれた複雑な心理状況を生々しく伝えています。
これらの証言は、特攻隊員を単純な「英霊」や「犠牲者」として一面的に描くのではなく、様々な思いや葛藤を抱えた「人間」として理解することの重要性を教えてくれます。
まとめ:忘れてはならない生還者たちの証言
特攻隊から生還した隊員たちの証言は、戦争の本質と人間の尊厳について深い洞察を与えてくれます。小貫貞雄さん、佐々木友次さん、村山了さんといった方々の経験は、「十死零生」と呼ばれた特攻作戦の実態と、若者たちが置かれた複雑な状況を理解する上で極めて重要です。
また、鳥濱トメさんのような「特攻の母」と呼ばれた方々や、知覧特攻平和会館の語り部たちの活動は、直接体験者がいなくなった後も、特攻の記憶を次世代に伝える重要な架け橋となっています。
2025年には戦後80年という大きな節目を迎えます。特攻隊員からの直接証言を聞く機会はますます減少していますが、彼らが残した言葉は今なお私たちに語りかけています。特攻隊の歴史を通じて戦争の本質を考え、平和の尊さを再認識することは、現代に生きる私たちの責任でもあるでしょう。

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