特攻隊の遺書に「死にたくない」という記述はあったのか?泣ける手紙の実例

特攻隊の遺書に「死にたくない」という記述はあったのか?泣ける手紙の実例

太平洋戦争末期、日本軍が実施した特別攻撃(特攻)作戦。自らの命と引き換えに敵艦に体当たりするという極限の任務に就いた若者たちが、出撃前に綴った遺書や手紙は、戦争の悲惨さと人間の尊厳を伝える貴重な歴史資料となっています。

本記事では、特攻隊員たちの遺書に秘められた本音と、家族や恋人に宛てた心揺さぶる手紙の実例を紹介します。特に「死にたくない」という本音が表現されていたのかという点に焦点を当て、検閲下での真実の伝え方を探ります。

目次

特攻隊の遺書とは?

特攻隊員たちが残した遺書は、自らの死を覚悟した若者が最後に残した言葉として、戦後の日本人の心に深く刻まれてきました。これらの遺書は大きく二種類に分けられます。一つは公式な「遺書」として上官に提出されたもの。もう一つは家族や恋人など親しい人に宛てた私的な「手紙」です。

公式な遺書は、基本的に上官の目に触れることを前提に書かれていました。半藤一利著『戦士の遺書 太平洋戦争に散った勇者たちの叫び』によれば、これらの文書には「見事、空母を撃沈してみせる」「明日の出撃に興奮冷めやらぬ思い」といった勇ましい言葉が多く見られます。しかし、これらは必ずしも書き手の素直な気持ちをすべて表現したものではなかったのです

一方、家族や恋人に宛てた私的な手紙には、より人間らしい感情が表現されていることが多く、戦後の歴史研究において重要な一次資料となっています。ただし、これらの手紙も基本的には検閲を通る必要があったため、直接的な戦意減退につながる表現は避けられる傾向がありました。

特攻隊の遺書に「死にたくない」という記述はあったのか?

特攻隊員の遺書に「死にたくない」という直接的な表現が記されているケースは極めて稀です。元特攻隊員の長峯良斉氏は「(遺書は)それが必ず他人(多くの場合は上官)の手を経て行くことを知っており、そこに『死にたくはないのだが…』などとは書けない」と証言しています。当時の国家体制と軍隊組織の中では、そのような本音を書くことが許されない雰囲気があったのです。

しかし、文面に直接表現されなくても、死を目前にした隊員たちの本心は様々な形で垣間見ることができます。例えば、神風特別攻撃隊第二正統隊で戦死された小野義明さんのケースが注目に値します。

彼は遺書では「立派な死場所を得て…何の未練も無く敵艦に突っ込んで行く事が出来ます」と書きながらも、出撃前に母親と面会した際には「まだ死にたくない」とつぶやいたことが姉の証言から明らかになっています。

元回天(人間魚雷)搭乗員だった新本巌さんは、「正直に言えば、誰も死にたくない。でも自分たちが防波堤になって国を守らんといけん局面では、なかなかそうは言われん」と戦後になって語っています。これらの証言は、公式記録や検閲付きの遺書には現れない、特攻隊員たちの複雑な心境を示しています。

広島市安佐北区に住んでいた元特攻隊員の新本さんは、「桜花」(爆薬を積んだ小型の航空機)隊の一員でしたが、出撃命令のないまま終戦を迎えました。終戦後、「死なずに帰れるとうれしかった。今になって思えば生きることに制限はない。特攻は二度とあってほしくない」と語っていま2。このような生還者の証言こそが、特攻隊員たちの本音を伝える貴重な記録なのです。

泣ける手紙の実例

それでは、実際に、特攻隊が書いた遺書には、どのようなものがあるのでしょうか?

ここでは、涙なしには見れない手紙の実例を紹介します。

恋人の場合

特攻隊員の中でも、婚約者や恋人に宛てた手紙は特に胸を打つものが多くあります。中でも福島県喜多方市出身の穴澤利夫大尉(23歳)が婚約者の智恵子さんに宛てた手紙は、特攻隊員の遺書の中でも最も心揺さぶるものの一つとして知られています。

穴澤大尉は1945年4月12日、第20振武隊の一員として知覧基地から出撃し、戦死しました。智恵子さんは彼の死から4日後の4月16日にこの手紙を受け取りました。

手紙の中で穴澤大尉は、「二人で力を合わせて努めて来たが、終に実を結ばずに終った」と書き出し、「今は徒に過去における長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから」と智恵子さんの将来を案じています。さらに、「あなたの幸せを希ふ以外に何物もない」「あなたは過去に生きるのではない」「勇気を持って、過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」と、自分のことを忘れて幸せになってほしいという願いを綴っています。

そして手紙の最後には、「智恵子、会いたい、話したい、無性に」と、素直な感情を吐露しています。この一文こそが、飾り立てられた言葉の中に隠された本音であり、生きたかった証しではないでしょうか。

さらに、穴澤大尉には興味深いエピソードがあります。彼は出撃前に、智恵子さんからマフラーを贈られました。「神聖な帽子や剣にはなりたくないが、替われるものならあの白いマフラーのように、いつも離れられない存在になりたい」という彼女の一途な思いに応え、彼はそのマフラーを彼女の身代わりとして、首に巻いて出撃しました。

家族の場合

家族に宛てた遺書の中で特に注目すべきは、小野義明さんの遺書です。彼は「今度破格にも漸く立派な死場所を得て此れで先輩にも父上母上様にも申訳が出来て何の未練も無く敵艦に突っ込んで行く事が出来ます」と書いていました。

しかし、実際に母親と面会した際には「まだ死にたくない」とつぶやいたという証言が残されています。この言葉と遺書の内容の乖離は、当時の特攻隊員たちが置かれた複雑な状況を如実に物語っています8

また、別の特攻隊員の遺書には次のような言葉があります。

「僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。お母さん、良く顔を見せて下さい。しかし、僕は何んにも『カタミ』を残したくないんです。十年も二十年も過ぎてから『カタミ』を見てお母さんを泣かせるからです。お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。それが僕の別れのあいさつです。」

この遺書には勇ましい言葉はなく、単に母親を思う気持ちだけが綴られています。このような素直な感情表現こそが、検閲の目をかいくぐった特攻隊員の本音ではないかと考えられます。

遺書はどのように届けられたのか?

特攻隊員の遺書が家族や恋人の元に届けられる過程も、実は複雑なものでした。基本的には上官を通じて軍から遺族に届けられるケースが一般的でしたが、中には興味深い例外もありました。

小野義明さんの場合、遺書を書いた後、どうやって家族に届けるか思案していたところ、同期生である福田さんの母親が面会に来たのを機に、その方に託したとされています。福田さんの母親はその後、久留米市の小野さんの実家に立ち寄って遺書を届けたといいます。

一方で、遺書が改ざんされたり、捏造されたりするケースもあったことが、最近の研究で明らかになっています。例えば、海軍省の特務機関から派遣されてきたという人物が遺族を訪ね、「口外しないように」と言って「遺書」を渡すという不可解な例も報告されています。

この背景には、特攻作戦を発案し指揮した海軍の複雑な思惑があったのではないかと専門家は分析しています。「この当時、10年たったら海軍は復活すると多くの人は考えていて、明治以来の立派な歴史を持った海軍を復活させたいという気持ちがあった」「海軍としては軍としても人としてもやってはいけない特攻作戦を発案し、それを実行したという、本当に抜きがたい、心に刺さったとげのような部分があった」という見方があります。

まとめ:語り継がれるべき真実の言葉

特攻隊員たちの遺書から見えてくるのは、「英霊」や「神風」といった美化された物語では捉えきれない、生身の若者たちの複雑な思いです。

公式の遺書や検閲を通った手紙の中には直接的な「死にたくない」という表現はほとんど見られませんが、母親との最後の面会で漏らした「まだ死にたくない」という言葉や、恋人に宛てた「会いたい、話したい、無性に」という素直な感情表現の中に、彼らの本音を見ることができます。

「特攻の父」と呼ばれる大西瀧治郎中将が自決する際に残した「その国の宝を体当り攻撃で送り出した痛恨の想い」という言葉は、特攻作戦の悲劇性を象徴しています。若くして命を絶たれた特攻隊員たちの真の思いを理解することは、戦争の愚かさと平和の尊さを次世代に伝える上で非常に重要です。

生還した元特攻隊員の新本さんが「特攻は二度とあってほしくない」と語るように、特攻隊員たちの遺書や証言は単なる歴史的資料ではなく、平和への切実な願いを込めたメッセージとして受け止めるべきでしょう。彼らの残した言葉の一字一句に耳を傾け、戦争の真実を見つめ直すことが、今を生きる私たちの責任ではないでしょうか。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

DEEP JAPAN QUEST編集部は日本文化に関する総合情報メディアを運営するスペシャリスト集団です。DEEP JAPAN QUEST編集部は、リサーチャー・ライター・構成担当・編集担当・グロースハッカーから成り立っています。当サイトでは、日本文化全般に関わる記事を担当しています。

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次