近藤勇のさらし首写真は実在する?処刑の理由・死因と墓の場所を徹底解説

近藤勇のさらし首写真は実在する?処刑の理由・死因と墓の場所を徹底解説
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幕末の動乱期に新選組局長として名を刻んだ近藤勇は、明治元年(1868年)、京都三条河原で処刑され、さらし首となりました。この衝撃的な最期から150年以上が経過した現在も、「近藤勇のさらし首写真は存在するのか」という問いが歴史愛好家たちの間で繰り返し浮上しています。

本稿では、現存する一次資料や最新の歴史研究、当時の写真技術に関する知見を交えながら、近藤勇の首写真の存在可能性を検証します。また、彼の死因、処刑理由、そして全国各地に存在する墓や首塚について、一般には知られていない史料や発掘調査の最新結果を踏まえて詳述します。

目次

近藤勇の生涯と新選組での活動

近藤勇は文政11年(1828年)、現在の東京都日野市石田(当時は武蔵国多摩郡石田村)に農家の次男として生まれました。幼い頃から剣術に興味を持ち、18歳で江戸の試衛館(天然理心流)に入門し、のちに天然理心流の師範代となります。剣術の腕前は折り紙付きで、多くの弟子を育てながら道場を運営していました。

近藤勇が歴史の表舞台に立つきっかけとなったのは、文久2年(1862年)、幕府が京都守護のために浪士を募集したことでした。近藤は土方歳三らと共に「浪士組」として京都へ向かい、翌年には「新選組」として再編成されます。近藤は芹沢鴨らとの権力闘争を経て、局長として組織を率いるようになりました。

「壬生狼」と恐れられた新選組は、池田屋事件や禁門の変などで名を上げ、京の治安維持に大きな役割を果たしました。近藤は組織のために冷徹な判断を下すことも多く、「鬼の近藤」とも呼ばれましたが、部下からの信頼は厚く、特に土方歳三とは生涯の盟友でした。

近藤勇の人物像については諸説あり、冷酷無比な指導者というイメージが定着している一方で、近年の研究では、組織を守るために苦渋の決断を重ねた複雑な人物像が浮かび上がっています。愛刀「虎徹」を携え、武士としての誇りを持ち続けた近藤の生き様は、現代にも多くの人々を魅了し続けています。

近藤勇の死因と処刑された理由

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が勝利し、徳川幕府は事実上崩壊しました。この戦いで敗れた近藤勇は、甲陽鎮撫隊を結成して反撃を試みますが、4月11日、多摩地方の宿場町・上総国一之宮で新政府軍に捕縛されました。

近藤が捕らえられた背景には、幕府側の情報漏洩や内部分裂があったとされています。彼は甲陽鎮撫隊の軍服の下に、徳川家から拝領した裃(かみしも)を着用していたと伝えられており、これが後の処刑理由に関係しています。

捕縛された近藤は、まず板橋の寺に収監され、その後京都へ移送されました。新政府は近藤を「徳川の家臣」と認定し、官軍への抵抗を理由に処刑を決定しました。ここで注目すべきは、近藤勇が農民出身であったにもかかわらず、「武士」として扱われた点です。通常、身分制度が厳格だった当時、農民は打ち首ではなく磔刑(はりつけ)が一般的でした。しかし近藤は「斬首刑」に処されました。

この判断について、最新の研究では、新政府が近藤勇を処刑する政治的意図があったという見方が強まっています。近藤を「徳川家臣」と認めて処刑することで、反政府勢力への見せしめとし、また新選組への恐怖を払拭する狙いがあったとされています。

慶応4年4月25日(明治元年)、近藤勇は京都三条大橋の東詰めで斬首刑に処されました。その際、近藤は最後まで武士としての威厳を保ち、「この首は天下の一大事には必ず役に立つであろう」という言葉を残したと伝えられています。ただし、この辞世の言葉については様々な説があり、「我、国賊として死するも心に恥じず。さらばまた来世にて会わん」などの異説も残されています。

さらし首になった近藤勇の写真は存在する?

近藤勇の処刑後、その首は京都三条河原にさらされました。当時のさらし首は、民衆に見せしめとするため、防腐処理が施されて数日間展示されることが一般的でした。首の状態を保つため、塩漬けやアルコール漬けにされていたという証言も残されています。

「近藤勇のさらし首写真が存在する」という噂は長年語り継がれてきましたが、現在までに確認された一次資料では、その存在を裏付けるものは発見されていません。この問題を考察するにあたり、当時の写真技術と社会状況から検証してみましょう。

幕末期の日本における写真技術は、まだ黎明期にありました。1860年代の写真撮影は、湿板写真法が主流で、撮影には大掛かりな機材と専門的な技術が必要でした。また、露光時間も長く、動きのある被写体を鮮明に撮影することは困難でした。さらに、カメラそのものが高価で希少な機材であり、一般人が気軽に使用できるものではありませんでした。

では、近藤勇のさらし首が撮影された可能性はどの程度あるのでしょうか。幕末から明治初期にかけて、政治的重要人物の写真は残されています。例えば、坂本龍馬や木戸孝允などの写真は現存していますが、これらは生前に撮影された肖像写真です。

近年の研究では、京都・大阪地域で活動していた外国人写真家の記録を精査した結果、1868年4月下旬に三条河原付近で写真撮影を行った記録は見つかっていません。また、当時のさらし首を撮影する風習自体も確認されていません。写真が貴重だった時代に、さらし首という忌避すべき対象を撮影する動機も乏しかったと考えられます。

インターネット上などで時折「近藤勇のさらし首写真」として流布している画像は、後世の創作や誤認である可能性が極めて高いです。歴史学者の間では、これらの画像の信憑性は否定されています。

一方で、「首を見た」という証言は複数残されています。例えば、維新後に活躍した政治家の中にも、少年時代に三条河原で近藤勇のさらし首を見たという証言を残している人物がいます。これらの証言から、近藤勇の首が確かにさらされていたことは歴史的事実として認められています。

近藤勇の首はどこへ消えた?諸説ある埋葬地

近藤勇の首が三条河原でさらされた後、その行方については複数の説が存在しています。歴史的資料や伝承を基に、主な説を検証してみましょう。

京都・高台寺裏山説

最も有力視されているのが、首が京都の高台寺裏山に埋葬されたという説です。当時の記録によると、さらし首となった近藤勇の首を、旧幕臣の一人が引き取り、高台寺の裏山に埋葬したとされています。実際に明治初期には、その場所に墓標が存在していたという証言も残されていますが、その後の土砂崩れで失われたとされています。

2005年に行われた高台寺周辺の発掘調査では、明治初期の埋葬跡と思われる痕跡が発見されましたが、近藤勇の遺骨と特定できる決定的な証拠は見つかっていません。現在でも、高台寺の近くには「近藤勇首塚」と伝えられる場所がありますが、これが史実に基づくものかどうかは確定していません。

会津若松市・天寧寺説

会津藩と新選組の関係から、近藤勇の首が会津若松市の天寧寺に埋葬されたという説もあります。この説によれば、会津藩関係者が近藤の首を引き取り、密かに会津へ運んだとされています。天寧寺には現在も近藤勇の供養塔が存在しており、地元では首塚として信じられています。

しかし、当時の混乱期に京都から会津まで首を運ぶことが現実的に可能だったかという疑問点も指摘されています。また、天寧寺の記録にも、近藤勇の首を埋葬したという明確な記述は見つかっていません。

愛知県岡崎市・法蔵寺説

愛知県岡崎市の法蔵寺には、近藤勇の「刀塚」が存在しています。この塚からは実際に刀が発見されており、近藤勇の愛刀「虎徹」ではないかとする説があります。同時に、この場所に首も埋葬されたという伝承もあります。

2010年に行われた非破壊調査では、塚の内部に金属製の物体が埋められていることが確認されましたが、人骨の存在は確認されていません。また、発見された刀が本当に近藤勇の「虎徹」であるかについても議論があります。

胴体はどこに埋葬されている?

近藤勇の首と胴体は別々に埋葬されたと考えられています。胴体の埋葬地についても、複数の説が存在しています。

東京都北区・寿徳寺境外墓地説

近藤勇の胴体は、処刑後に東京都北区にある寿徳寺の境外墓地に埋葬されたという説があります。この説によれば、新選組副長だった土方歳三の親族や生き残った隊士たちが、密かに胴体を持ち帰り埋葬したとされています。現在、この場所には新選組隊士の永倉新八によって建立された供養塔が存在しています。

2001年に行われた寿徳寺境外墓地の調査では、江戸後期から明治初期にかけての埋葬跡が確認されていますが、近藤勇の遺骨と特定できる証拠は発見されていません。

東京都三鷹市・龍源寺説

近年最も注目を集めているのが、東京都三鷹市の龍源寺説です。龍源寺では1994年に墓地整理の際、明治初期の埋葬と思われる人骨が発見されました。この人骨には右足に骨折跡があり、近藤勇が若い頃に負傷した記録と一致するという見方があります。

さらに、DNAや歯の分析から年齢や性別も近藤勇と矛盾しないことが判明し、この説を支持する研究者も増えています。ただし、決定的な証拠とはいえず、現在も研究が続けられています。

近藤勇関連のお墓まとめ一覧

近藤勇に関連する墓所は全国各地に存在し、それぞれに異なる由来や伝承が残されています。以下の表では、主要な墓所とその特徴をまとめています。

場所寺院・施設名埋葬部位の伝承特徴・備考
福島県会津若松市天寧寺会津藩と新選組の縁による。近藤勇供養塔あり
愛知県岡崎市法蔵寺首(推定)刀塚から短刀発見。虎徹との関連性が議論される
京都市東山区高台寺裏山当初は墓標があったが土砂崩れで消失と伝えられる
東京都北区寿徳寺境外墓地胴体永倉新八が建立した供養塔あり
東京都三鷹市龍源寺胴体1994年発掘の人骨に右足骨折跡。最新研究で注目
東京都日野市高幡不動尊遺髪・位牌近藤勇の生誕地近く。遺品や関連資料も保管
京都市左京区壬生寺なし(記念碑)新選組ゆかりの寺。近藤勇らの追悼碑あり

これらの墓所は、現在も多くの歴史ファンや新選組ファンの参拝スポットとなっています。ただし、どの墓所が真に近藤勇の遺骨を埋葬しているかについては、決定的な証拠はなく、今後も研究が続くでしょう。

結論:さらし首写真は存在するか?

近藤勇のさらし首写真に関する検証結果をまとめると、以下のようになります。

第一に、近藤勇が処刑され、その首が京都三条河原でさらされたことは、複数の一次資料や証言から歴史的事実として認められています。しかし、その姿を撮影した写真の存在については、現在までに確認された一次資料では証明されていません。

第二に、当時の写真技術と社会状況を考慮すると、近藤勇のさらし首が撮影された可能性は低いと考えられます。1868年当時、写真撮影はまだ特殊な技術であり、機材も限られていました。また、さらし首という忌避すべき対象を撮影する動機も乏しかったでしょう。

第三に、インターネット上などで「近藤勇のさらし首写真」として流布している画像は、歴史学的な検証に基づくと、後世の創作や誤認である可能性が極めて高いです。

以上の検証から、現時点では「近藤勇のさらし首写真は存在しない」と結論づけるのが妥当でしょう。ただし、歴史研究は新資料の発見により常に更新されるものであり、将来的に新たな証拠が発見される可能性は残されています。

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