旧日本軍が頭おかしいと非難される理由|狂気を生み出した背景を考察

旧日本軍が頭おかしいと非難される理由|狂気を生み出した背景を考察
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第二次世界大戦中の旧日本軍(大日本帝国陸海軍)の行動や思想は、戦後から現代に至るまで「頭おかしい」「狂気的」と評される場面が少なくありません。アジア太平洋戦争(1931~45年)の15年間において、日本軍がアジア太平洋各地の占領地域で一般市民に対して様々な残虐行為を犯したことは広く知られています。しかし、なぜそのような行為に及んだのか、その背景にある軍の体質や思想はどのようなものだったのかについては、今なお検証が続いています。

本記事では、旧日本軍が「頭おかしい」と非難される具体的な理由と事例、そしてそのような狂気を生み出した背景について、歴史的資料や専門家の見解をもとに考察します。過去の過ちを振り返ることは、将来の軍事力のあり方を考える上でも重要な視点となるでしょう。

目次

旧日本軍が頭おかしいと非難される理由

旧日本軍が批判される主な理由には、精神論の偏重、残虐行為、そして軍の暴走と統制の欠如という3つの大きな要素があります。以下、それぞれについて詳しく見ていきましょう。

理由1:極端な精神論の偏重

旧日本軍の最大の特徴のひとつは、極端な精神論への偏重でした。物質的な戦力差よりも「精神力」や「意志」を重視する考え方が、軍の教育や作戦立案の基礎となっていたのです。

昭和3(1928)年に編まれた歩兵操典には「軍紀至厳にして攻撃精神充溢せる軍隊は、能く物質的威力を凌駕して戦捷を全うし得るものとす」という記述があります。つまり、「精神力は物質的威力を超える」という考え方が公式に認められていたのです。

また、昭和19(1944)年の東條英機首相兼陸相による施政方針演説では、「戦争は、意志と意志の戦いであります」「勝利は、あくまでも最後の勝利を固く信じて、闘志を持続したものに帰するのであります」「大和民族の精神力は、万邦無比であります」と述べられています。これらの言葉からは、客観的な戦力分析や合理的な戦略立案よりも、抽象的な「精神力」や「意志」が重視されていたことがわかります。

特に、軍人の心構えを説いた陸軍大臣告示「戦陣訓」の中にある「生きて虜囚の辱めを受けず」という一文は、捕虜になるよりも死を選ぶことを奨励するものでした。この思想が、「玉砕」という悲劇的な作戦を生み出す土壌となりました。

実際に硫黄島戦での日本軍の戦死者と捕虜の比率を見ると、22,000人の死者に対して捕虜はわずか212人でした。これはイギリス軍(シンガポール戦:5,000人の死者と80,000人の捕虜)やアメリカ軍(フィリピン戦:25,000人の死者と83,600人の捕虜)と比較して、極端に捕虜が少ないことがわかります。

理由2:組織的な残虐行為と戦争犯罪

旧日本軍は占領地での民間人に対する組織的な残虐行為や戦争犯罪を多数犯しました。これらの行為は単なる個人の逸脱ではなく、軍の体質や方針に根ざしたものであったとする見方があります。

南京事件(南京大虐殺)は、1937年12月13日に日本軍が南京を占領した後、武器を放棄した中国人兵士と一般大衆を無差別に虐殺した事件です。犠牲者数については30万人説からゼロまで諸説ありますが、日本政府も「日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったこと」を認めています。

また、バターン死の行進は、フィリピンのバターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍の捕虜が、収容所への移動中に多数死亡した事件です。全長約120kmの行進において、捕虜は過酷な環境下で移動を強いられました。

さらに、いわゆる「慰安婦」問題も、日本軍による組織的な関与が指摘されています。第二次世界大戦中、日本兵の性奴隷として働かされた女性は20万人以上いたとも推定されています。

理由3:軍の暴走と統制の欠如

旧日本軍の最も特徴的な問題のひとつは、中央の統制が効かず、現場の独断専行や暴走を止められなかった点にあります。

象徴的な例として、「作戦の神様」と呼ばれた陸軍のエリート参謀・辻政信の行動があります。辻はバターン戦終了時に、フィリピン人は「同胞であるアジア人を裏切って白人植民地主義者であるアメリカ人に味方したのだから処刑しろ」として、独断で「大本営から」のものとする偽の捕虜処刑命令を出しました。

この偽命令に従って、渡辺祐之介大佐率いる歩兵第百二十二連隊では、捕虜約500人を刺殺、銃殺させた例もあります。一方で、今井武夫大佐や生田寅雄少将のように命令を拒否した指揮官もいましたが、このような偽命令が発令され、一部で実行されたという事実からは、軍の指揮系統の脆弱さがうかがえます。

司馬遼太郎は、「参謀」という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略を企んでは国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったと指摘しています。

旧日本軍が犯したひどいこと

旧日本軍が行った具体的な残虐行為や戦争犯罪について、いくつかの代表的な事例を詳しく見ていきましょう。これらの事実は、戦後の国際法廷や歴史研究によって明らかにされてきたものです。

その1:南京大虐殺(南京事件)

1937年12月13日、日本軍が中国の南京を占領した後に起きた南京大虐殺は、旧日本軍による最も悪名高い戦争犯罪のひとつです。日本軍は公然と国際条約を違反し、武器を放棄した中国人兵士と一般大衆を無差別に虐殺しました。

犠牲者数については諸説あり、中国政府は30万人以上と主張していますが、日本の研究者の間では見解が分かれています。極東国際軍事裁判の判決では、「日本軍が占領して最初の6週間で南京とその周辺で殺害された数」を約20万人としています。

日本政府は、外務省の「歴史問題Q&A」において、「日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったこと」を認めていますが、具体的な犠牲者数については言及していません。

南京事件をめぐっては現在も「南京事件論争」として議論が続いていますが、少なくとも多数の非戦闘員が殺害されたという事実は、日本政府も認めるところとなっています。

その2:「慰安婦」制度の設置と強制

いわゆる「慰安婦」問題は、第二次世界大戦中に日本軍が設置した「慰安所」とそこで働かされた女性たちに関する問題です。

慰安所が設置された第一の理由は、日本兵が性病に感染して兵力が低下するのを防ぐことでした。すでに1904~5年の日露戦争の時点でも、日本軍将兵に性病が広がり問題となっていました。

第二次世界大戦中、日本兵の慰安婦になることを強制された女性は20万人以上いたとも推定されています。これらの女性の多くは韓国人でしたが、中国、フィリピン、インドネシア、台湾の出身者もいました。

2023年11月、韓国のソウル高等裁判所は、元慰安婦の女性らが日本政府に対して起こした訴訟で、日本政府に賠償を命じる判決を下しました。裁判所は「不法行為については国家の免責は認められない、との国際慣習法が存在すると考えるのが妥当だ」としています。

この問題は現在も日韓関係における懸案事項となっており、両国間の歴史認識の相違を象徴する問題となっています。

その3:731部隊による人体実験

旧日本軍の関東軍防疫給水部(通称「731部隊」)は、中国東北部で捕虜などを使った生体実験や、ペスト菌などを使った生物兵器の実験・開発を行っていました。

2020年に西山勝夫・滋賀医科大学名誉教授らが発見した公文書によると、731部隊は「細菌の研究生産等を実施していた」「終戦時迄主として細菌の研究及生産に住(ママ)じていた」など、細菌の研究・生産を行っていたことを裏付ける記述が確認されています。

この部隊は本部と林口、牡丹江、孫呉、海拉爾、大連の5支部、ペスト防疫隊で構成され、総計3,262人の隊員がいたことが明らかになっています。

731部隊の活動は、戦後長らく闇に葬られてきましたが、徐々に資料の発掘や研究が進み、その全容が明らかになりつつあります。人体実験という非人道的行為は、科学的研究という名目のもとに行われた戦争犯罪の一つと言えるでしょう。

旧日本軍の狂気を生み出した背景

旧日本軍の「狂気」と呼ばれる行動や思想は、単に個人の異常性によるものではなく、複雑な歴史的・社会的背景から生まれたものでした。ここでは、その背景について考察します。

明治維新と天皇制の影響

旧日本軍の精神主義の根源には、明治維新時の軍の成り立ちがあります。大日本帝国陸海軍は、戊辰戦争時の明治新政府軍に端を発するものであり、天皇を盟主とし、徳川幕府を倒すために編成された軍でした。

建軍時、強力な徳川幕府を倒すためには、天皇の神格性をことさら強調した精神論が必要だったのです。この精神が受け継がれ、帝国陸海軍ではひどく精神論に偏った教育が行われていきました。

「戦争は負けと思った方が負けなのだ」「蒙古襲来のときは神風が吹いた」「天皇陛下ある限り神州日本は負けない」といった精神論が、合理的な戦略や戦術を超えて重視される土壌となりました。

軍隊における体罰と非人間的訓練

日本軍の兵士たちに対する残虐な扱いも、軍の体質を形作る重要な要素でした。

日本の軍隊の伝統には独特な要素があり、例えばドイツ軍では「敵を殺せ」とまず命じられたのに対し、日本軍は殺すこと以上に死ぬことの大切さを説きました。この日本軍の自分たちの兵士に対する残虐性は、19世紀後半の近代化の初期段階においてすでに顕著に現れていました17

1872年に発令された海陸軍刑律は、戦闘において降伏、逃亡する者を死刑に処すると定めており、軍規律や上官の命令に背くものは、その場で射殺することが許されていました。さらに、江戸時代の「罪五代におよび罰五族にわる」という原則同様、一兵士の軍規違反は、その兵士のみならず、彼の家族や親類にまで影響をおよぼすと恐れられていました17

このような厳しい規律と罰則によって、兵士たちは無条件に上官の命令に従うよう訓練され、それが時に非人道的な行為にもつながったと考えられます。

国家主義とファシズムの台頭

1930年代から40年代にかけて、日本では急速に国家主義とファシズムが台頭しました。これは世界的な潮流でもありましたが、日本においては特に軍部の台頭と結びついていました。

1937年(昭和12年)の「蘆溝橋事件」を発端とした日中戦争開始後、近衛文麿内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、国をあげて国民精神総動員運動を展開しました。また1938年4月には「国家総動員法」を制定し、国民生活の隅々まで統制・支配するようになりました。

この総力戦体制の中で、教育も「皇国ノ道ニ則リテ」「国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とするものとなり、子どもたちを「お国のための死へと導く教育」へと変質していきました。

このような全体主義的な社会風潮の中で、軍部の狂気を止める民主的な力は次第に弱まっていったのです。

軍事力はどうあるべきなのか?

過去の日本軍の過ちから学び、現代および未来の軍事力はどうあるべきかについて考えてみましょう。

民主的統制の徹底

まず重要なのは、軍事組織に対する民主的統制(シビリアンコントロール)の徹底です。旧日本軍の大きな問題点の一つは、軍部が政治に介入し、時に政府の統制を超えて独断専行したことにありました。

現代日本の自衛隊は、文民統制の原則に基づき、防衛大臣を通じて内閣総理大臣の指揮監督下に置かれています。この民主的な統制システムを維持・強化することが、軍事組織の暴走を防ぐ基本となります。

国際法の遵守と人権意識の向上

戦争にも国際法によるルールがあります。ジュネーブ条約をはじめとする国際人道法は、戦闘に参加していない人々や、もはや戦闘能力のない人々を保護するためのものです。

旧日本軍の多くの戦争犯罪は、このような国際法を無視した結果として起きました。現代の軍事組織には、国際法の遵守と人権意識の向上が不可欠です。

「ハードパワー」と「ソフトパワー」のバランス

国家の安全保障は、軍事力などの「ハードパワー」だけでなく、文化や外交、経済協力などの「ソフトパワー」によっても支えられます。

日本の米軍作成の報告書によると、旧日本軍の兵士は「肉体的には頑健である、準備された防御では死ぬまで戦う、特に戦友が周囲にいたり、地の利を得ている時には大胆かつ勇敢である」などの長所がある一方で、「予想していなかったことに直面するとパニックに陥る、戦闘のあいだ常に決然としているわけではない、多くは射撃が下手である、時に自分で物を考えず「自分で」となると何も考えられなくなる」といった短所も指摘されていました。

これは単なる軍事力(ハードパワー)の強化だけでは、真の安全は保障されないことを示唆しています。外交や国際協力を通じたソフトパワーの発揮も、現代の安全保障には不可欠なのです。

まとめ:ソフトパワーの時代をつくるべき

旧日本軍の極端な精神論への偏重、残虐行為、軍の暴走と統制の欠如は、多くの悲劇を生み出しました。その背景には、明治維新以来の天皇制と国家神道に基づく精神主義、軍隊内部の非人間的な訓練と規律、そして1930年代以降の全体主義的な社会風潮がありました。

これらの過ちから学び、現代および未来の軍事力は、民主的統制の徹底、国際法の遵守と人権意識の向上、そして「ハードパワー」と「ソフトパワー」のバランスを重視すべきです。

特に日本は、憲法第9条の精神を尊重しながらも、現実的な安全保障政策を追求するという難しい舵取りを求められています。その中で、過去の過ちを繰り返さないためにも、軍事力の民主的統制と、外交・国際協力を通じたソフトパワーの発揮が重要となるでしょう。

「失敗の本質」の著者である戸部良一氏が指摘するように、旧日本軍の失敗から学び、同じ過ちを繰り返さないためには、歴史から教訓を引き出し、現代に活かしていく努力が必要です。軍事力だけに頼る安全保障ではなく、外交、文化交流、経済協力などのソフトパワーを重視した国際関係の構築こそが、21世紀の平和をつくる鍵となるのではないでしょうか。

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