終戦記念日の「記念」はおかしいのか?

終戦記念日の「記念」はおかしいのか?

8月15日は「終戦記念日」です。当時、昭和天皇がポツダム宣言受託に関する勅旨をラジオ放送を通じて国民に報じられた日が基準となっています。

なかには、ポツダム宣言が正式に受託された9月2日が「本当の終戦記念日である」という人たちもいますが、当時の国民にとって「日本が負けた」という事実が告げられた8月15日は精神的な意味における「終戦」と位置付けるに相応しい日であると考えられます。

とはいえ、日本にとって「終戦」は「敗戦」です。それを「記念」として捉えることに違和感を抱く人たちもいるようです。この記事では、改めて「終戦記念日の記念はおかしいのか?」と問いと向き合ってみたいと思います。

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終戦記念日の「記念」はおかしいのか?

「終戦記念日」という名称を耳にしたときに、「おかしい」と感じる人たちもいます。たしかに、日本にとって「敗戦」を意味する太平洋戦争の終戦が「記念日」として喜ばしいことのように位置付けられるのは違和感がありますよね。実際、NHKでは、終戦記念日ではなく「終戦の日」と言っているようです。

8月は終戦や原爆・空襲など、先の大戦に関するニュースや番組がさまざまな形で放送されます。このうち、終戦を迎えた15日を「終戦記念日」と表現することに抵抗を感じる人も多いので、放送では「終戦の日」といっています。広島と長崎に原爆が投下された6日と9日も、「原爆の日」という表現をしています。
NHK文化放送研究所のHPより引用

特に、「日本人」という自覚が強い人たちにとっては、「自分の国が負けたのにもかかわらず、何が終戦記念日だ」と文句を言いたくなるのも理解できなくはありません。また、戦争によって奪われた数多くの命があったことを考慮して、「記念」という言葉それ自体が相応しくないと考える人もいます。

その一方で、「戦争」という生命が危険に曝される日常から解放されたことで心から安堵した人たちもいたはずです。その人たちにとって、終戦は喜ばしいことだったに違いありません。すなわち、「記念」という言葉が使われていたとしても、決しておかしいわけではないのです。

以上のことを考慮すると、「記念」という言葉に対する感情の抱き方には、政治的・心理的な立場が反映されているとも言えます。

原爆の投下日を記念日とは呼ばない

なお、原爆が投下された8月6日と8月9日を「原爆記念日」という呼び方はしません。「原爆の日」と表現するのが一般的です。

たしかに、何十万人という尊い命が失われた人類史上、最悪のジェノサイドを「記念」するのは人道的におかしいですよね。その論理から終戦もまた記念すべきことではないと考える人たちがいても何ら不思議はないでしょう。

とりわけ、家族を失ったり、被曝したりした人たちからすれば、その日を迎える度に胸が抉られるような気持ちになるはずです。したがって、「記念」という言葉を使うのはおかしいわけです。

犠牲者がいると記念できない

結局のところ、戦争は合法的殺人であり、一人でも生命を犠牲にしている以上、それをよかったなんて肯定できるわけがないのです。記念に対して「おかしい」という違和感は、「良い」と言えないことにもかかわらず、ポジティブな言葉が使われていることに対する矛盾から生まれるわけです。

もし、あなたが大切な人を戦争で失ったとしたら、その終戦を「記念日」と思えるでしょうか。きっと、悲しい記憶を思い出す日になるはずです。命という究極の価値を代替できるものはありません。だからこそ、私たちは生命に敬意を払い、他人の人生を奪うような行為をしてはならないのです。

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DEEP JAPAN QUEST編集部は日本文化に関する総合情報メディアを運営するスペシャリスト集団です。DEEP JAPAN QUEST編集部は、リサーチャー・ライター・構成担当・編集担当・グロースハッカーから成り立っています。当サイトでは、日本文化全般に関わる記事を担当しています。

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