邪馬台国の女王として活躍した卑弥呼について興味を持っている人たちもいるはずです。現代では想像もできない「巫女」という立場で倭国を統治していたなんて、その実態が気になりますよね。実際のところ、彼女は何をした人で、どんな人物だったのでしょうか?
『魏志倭人伝』以外に卑弥呼の存在を示す記録が残っていない以上、これから説明することは想像の域を出ることはありませんが、この記事では、小学生向けに簡単なポイントを整理しています。歴史について興味のある人たちは参考にしてみてください。
卑弥呼のプロフィール
卑弥呼は弥生時代に活躍した「邪馬台国の女王」です。古代中国の史書『魏志倭人伝』によって、その存在が知られるようになりました。卑弥呼は西暦170年から248年まで生きていたという説があります。死因には諸説あり、現時点では確定的なことはわかっていません。
卑弥呼のプロフィール | |
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名前 | 卑弥呼(ひみこ) |
生きた時代 | 西暦170年〜248年(諸説あり) |
立場 | 倭国の女王・巫女 |
卑弥呼は何をした人なのか?
さて、「倭国の女王」として国を統治した卑弥呼は、具体的に何をしたのでしょうか?
結論から言えば、卑弥呼は小国に分裂した倭国の争いを止めるために女王になりました。
2世紀後半、当時の倭国は男性が支配する小国に分裂していたと言われています。これらの国々は絶えず争いを繰り返しており、国内は混乱に陥っていたそうです。そこで、互いの国に共通する女王を定めることで、倭国を安定させようと試みたと言われています。その女王が「卑弥呼」だったのです。
一説によれば、卑弥呼は政治的に何か具体的なことをしたわけではないと言われています。実務は弟が補佐していたようです。その意味では、みんなが崇める象徴的な存在だったのかもしれません。事実こそわかりませんが、卑弥呼は巫女であり、鬼道で民衆を惑わしたとも伝えられています。
具体的には、天候を予想したり、豊作や戦の勝利を祈ったりする役割を担っていたとされています。
もしかしたら、倭国の政治に関わる人たちは、卑弥呼を「呪術的存在」として祭り上げることで分裂した国々の人々に畏敬を与えようと考えたのかもしれません。科学が進展していない時代において、特別な力で説明できることは今よりもきっと多かったのでしょう。
卑弥呼はどんな人だったのか?
なお、卑弥呼はどんな人だったのでしょうか?
残念ながら、卑弥呼の人物象を説明する歴史的な資料は残っていません。そのため、卑弥呼がどんな人だったのかはわからないのが答えです。
そもそも『魏志倭人伝』以外に卑弥呼の存在を物語る書物はなく、日本の歴史書には全く出てこないので、実在したかどうかもわからないのです。だからこそ、さまざまな想像や解釈が可能になり、学者や作家がさまざまな自説を展開しているのが実態です。
あくまでも想像に過ぎませんが、卑弥呼は自らの意思で積極的に政治を司っていたわけではないと言われています。そのため、ある種の生贄的な存在だったという見方もできるわけです。
したがって、人物象としては、周囲からの期待を一心に背負う献身的な人物だった可能性もあります。また、占いが得意だったことを考慮すると、周囲の状況や人間の心理を分析するのに長けた聡明な女性だった可能性もあるでしょう。
女王は誰にでも務まるものではありませんから、傑出した人物だったことは確かです。
卑弥呼は謎の多い歴史的人物
卑弥呼が生きていた当時の倭国には、文字が存在していなかったと考えられています。文字がない以上、その当時の記録を残す手段がありませんから、邪馬台国をはじめ卑弥呼の存在は謎に包まれているのです。事実、魏志倭人伝がなければ、卑弥呼が日本史に刻まれることはなかったでしょう。
当時の遺跡が発見されるなど考古学的な成果が出れば、卑弥呼の謎が解き明かされる可能性もあるかもしれません。あるいは、歴史的な大転換が起きる場合もあるでしょう。今でも邪馬台国の場所をはじめ当時の時代状況をめぐる議論は活発に行われています。
客観的に揺るぎのない事実が存在しない以上、そこには、何らかの理屈によって解釈を与える余地が生まれます。真実こそわかりませんが、歴史の不可思議さとロマンがそこにはあるのです。
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