『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼には弟がいたと言われています1。歴史の教科書では、その存在に焦点が当たることがありませんが、その人物像について気になる人たちもいるはずです。
この記事では、「卑弥呼の弟とは何者なのか?」という疑問に言及しています。名前や果たしていた政治的役割についても解説しているので、卑弥呼について詳しく知りたい人たちは参考にしてみてください。
卑弥呼に弟がいた
そもそも、「卑弥呼に弟がいた」と言われているのは、どうしてなのでしょうか?
それは『魏志倭人伝』に記録が残っていることに由来します。具体的には、次のような記述があります。
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
この漢文を書き下し文にすると、以下のようになります。
その国、本はまた男子を以って王と為す。住みて七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。すなはち、一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼といふ。鬼道に事へ、よく衆を惑はす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐く。
卑弥呼は夫はいなかったが、「弟が政治の手助けをしていた」と記述されているわけです。
卑弥呼の弟とは何者なのか?
それでは、卑弥呼の弟とは、何者だったのでしょうか?
『魏志倭人伝』の記述から、卑弥呼の弟は政治の実務を担当していたと考えられています。卑弥呼が祭祀を司り、弟が行政を司るという役割分担だったという可能性があるとのことです。
卑弥呼は人前に姿を現すことがなかったと言われていますから、弟が代わりにクニを指揮していたのかもしれません。ただ、詳しいことはほとんどわかっておらず、「男弟=血の通った弟」だったことすらも事実であるとは必ずしも言えないのです。
卑弥呼の弟の名前
残念ながら、卑弥呼の弟の名前は現時点では明らかになっていません。
『魏志倭人伝』の記述でも、「男弟」としか表記されておらず、名称は史料として残っていないのです。
卑弥呼の弟は神武天皇だったのか?
中川聿郎は謎に包まれた卑弥呼の弟が神武天皇だったという仮説を立てています。けれども、それを証明するのは不可能であると言わざるを得ません。
その意味では、事実として確定できないからこそ、さまざまな諸説が成り立つわけです。もちろん、神武天皇だった可能性も0ではありません。興味のある人たちは、書籍を読んでみることをおすすめします。
史料がなさすぎる
卑弥呼の弟に関しては史料がなさすぎるがゆえに、ほとんどわかっていないのが実情です。そもそも、血の繋がった弟だったかすら怪しいわけです。この謎が「神武天皇だった」とか、「スサノオだった」とかいう憶測が生まれる要因になっていると考えられます。
けれども、史実が明らかになっていない以上、これらの仮説は全てあり得る話です。とはいえ、はるか昔の出来事を事実として裏付けて説明するのは容易ではありません。歴史が語られるときに注意しなければいけないのは、後世の研究次第では変化し得るということです。
もちろん、考古学の成果によって揺るがぬ証拠が見つかるケースもあります。しかし、歴史の教科書は常に改定されてきました。私たちが歴史として知っていることは、権威のあるだれかの努力にとって導き出された主観的なものを前提としているのです。だからこそ、絶対的な歴史は存在しないのです。
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